
|
第二章 「ん……?」 気がつくと、仙子は教室にいた。 授業中の雰囲気である。 手元を見ると化学のプリントがあった。 置いてあるペンケースはアルミ製のシンプルなもので、手に持ったシャーペンは重たい銀色だ。仙子のものではない。 プリントとシャーペンを交互に見て不可解に首をかしげる。宛名を間違えて届いた郵便物を見たような気分だ。 「できたやつは自習していいぞ」 「あれ?」 予想外の声が聞こえて顔をあげる。 教壇の前に担任教師がいた。化学の沼本である。 思わず顔が引きつってしまう。その教科が苦手なら、教師まで苦手になる。 授業をサボって保健室に行ったはずだったことを思い出した。 しかも、仙子が座っている席は教壇の目の前だった。沼本と目が合う。 「お、もうできたのか?」 「は?」 機嫌よく、ありえないセリフを発した沼本をいぶかしげに見上げる。 仙子に向かって言った言葉とは思えない。 沼本が仙子の化学の成績を知らないはずがないのだが、ニコニコとプリントをのぞき込んできた。 仙子も首を傾げつつ手元に目を落とした。 「…………」 そして愕然とした。 プリントの解答部分がすべて埋まっていた。模範のようなすっきりとした答案用紙である。 「さすが、余裕だな」 生まれてこのかた教師からは一度ももらったことのない評価だ。 呆然と顔をあげて沼本を見ると、ひとり勝手に納得したような笑顔を向けられた。 「お前はもう自習してていいぞ」 「……え?」 ――――どーなってるの? パチっと目が覚めた。 「…………」 仙子は唖然としたような顔で目を見開き、白い天井を見上げて無意識に瞬きを繰り返した。 後頭部には枕の感触があり、自分が横たわっていることが分かる。 「夢か……」 そう思いついて呟く。 安堵に似たため息をつくと、脱力して全身がベッドに埋もれる気がした。 「そうか、そうよね、そうよ。そんなわけないのよ、私が化学のプリント全部うめるなんて」 全てきれいに埋まっている化学のプリントを見たのである。仙子はかなりの衝撃を受けていた。 「うん。あるわけないわ」 ホッとしたようにいってから、少し落ち込んだ顔になる。 「……自分で言ってて悲しくなるわ」 保健室の窓際のベッドの上である。葵いわく仙子専用の場所だ。 いつものように化学の授業をサボり、葵とお茶をしてからここで眠っていた。 このところずっとサボりつづけていたので潜在意識に少々罪悪感があったのかもしれない。そのせいでこんな夢を見てしまったのだろうか。 仙子は上体を起こし、あくびをしながら伸びをする。 「――ん?」 室内に意識を向け、小さな声に気づいた。葵の他に誰かいるらしい。 「藤谷先生……」 か細い女の声である。恐る恐るといった風に葵を呼んだ。 仙子はベッドを囲んでいる白いカーテンの隙間から声の主をのぞき見る。 斜め横から顔が見えた。予想通り、女子生徒である。 視線は葵にくぎづけで、まったく仙子に気づく様子はない。 昨日見たのは長髪の和風美人だったが、今日はショートカットで丸顔のかわいい感じの子だ。 頬を紅潮させ、緊張した面持ちで葵を見つめている。 対する葵は、やはりいつも通りの冷たい顔である。 女子生徒を完全に無視し、入室記録を記入している。 「う……、あの……」 視線も向けてくれない葵に少々怯み、おどおどと再度呼びかける。 「なんです?」 ギロリと葵が迷惑そうに片眉を上げてにらむ。その目は冷気を感じさせるほど冷たい。 女子生徒は凍ったように固まる。心臓が止まったような顔をした。 葵の冷たい視線は容赦なく拒絶の意志を浴びせ掛けている。 いつもバカバカしいほど仙子に甘々な葵のその顔を見て、仙子はおかしくなってきた。 笑いたくなったが、息を殺して我慢する。 「……なんでもありません」 女子生徒はくじけたらしく、そう言ってうつむいた。 葵はフンと皮肉っぽい笑みを口元に浮かべる。 「じゃあもう教室に戻れますね」 「う…、はい……」 葵の迫力に負け、女子生徒は引きつった顔で頷いていた。 ゆるゆると立ちあがり、もどかしいような目で葵を見つつドアに向かう。 葵は完全に目を机の上に戻している。もう女子生徒の存在など眼中にない。 少しの間葵を見つめ、視線を向けてもらえる可能性すらないと悟ると女子生徒はあきらめたように小さくため息をついた。 「失礼しました……」 寂しい声で言い残し、保健室を出て行った。 「…………」 戸が閉まった途端、葵の口元がほころぶ。 打って変わって上機嫌な顔で白いカーテンの方へ顔を向ける。 「せんちゃん、起きてますね?」 ペットを溺愛する親バカ飼い主のような顔である。 仙子は白いカーテンをさっと開けた。 「…なんで分かった?」 葵は呆れるくらいの満面の笑みを浮かべている。さっきの冷血漢と同一人物とは思えない。 「気配で分かります」 「気配って……」 さっきまで女子生徒が座っていた椅子に腰を下ろし、仙子が肩を竦める。 葵はピクリと耳をそばだて、急にむすっと口を曲げた。 「ついでに、廊下の気配も分かります」 「廊下?」 仙子が聞き返した時、ガラガラとドアが開かれた。 長身の金髪が顔をのぞかせる。 「よう」 「うわ、高岡くん」 わざとらしく驚いて見せる。葵は不満げな顔をしていた。 尭己は仙子を見ると得意げに口角を上げた。 「フッ、昨日の宣言通り朝のうちにきてやったぜ?」 言われて仙子は眉をひそめた。もう2時限目の化学が終わる時間のはずだ。 「まあ…、午前中っていう意味ならそうだけど……。どっちみち遅刻じゃないの」 「不満か?」 「別にどうでもいいですよ、キミが遅刻しようが早退しようが」 「そうね」 「…そうデスか」 夜型がしみついた尭己にとってこの時間の登校はかなりがんばったのだが、あっさりと受け流されてしまった。 葵はともかく仙子にはもうちょっと感動してほしかった。 「あ、それよりまたヘンな夢見ちゃったわ」 本当にどうでもいいらしく、仙子はすぐに話題を変えた。 多少の寂しさを感じたが、夢という単語に気を取られる。 昨日の仙子の夢の話を聞いて、ずっと気になっていた。 「また、正夢か?」 訊くと、仙子はブンブン大袈裟に首を横に振った。 「絶っ対違うと思うわ。化学のプリントが全部解けてる夢だったから」 「ほう、なるほど。そりゃあり得ない。逆夢だな」 「そうですね。見果てぬ夢って感じですね」 「……なによ二人して」 珍しく尭己に同調した葵にまで言われ、仙子は拗ねるように口を歪める。 「もしくは夢のお告げだ。たまには真面目に化学の授業を受けろっつーことじゃねーの?」 「うっさい。いーのよもう化学終わったし」 「でも沼本くんも嘆いてました。せんちゃんが授業に出ないって」 さっさとこの話題を終わらせようとしたが、葵に阻止された。 が、葵が珍しく他人を親しいように呼んだことに尭己が耳ざとく気づいた。 「ん? 葵さん、沼本先生と仲いいのか?」 「高校時代からのつきあいなんだってさ」 「へー」 仙子に教えられ、ものすごく意外な顔で頷く。 葵に相変わらずの冷たい目を向けられた。 「君には関係ないですけどね」 「あっそ」 尭己はおもしろくなさそうに口を尖らせた。 そして、授業終了のチャイムが鳴った。 仙子は嫌な化学の授業を受けなくてすんだ。晴れ晴れとした顔で椅子を立つ。 「さー、戻ろ。じゃーね葵さん」 「あ、もう戻ります?」 「またくるわ」 「はい、またいつでもどうぞ」 ニコニコと微笑みあう。 尭己も笑顔を作り、葵に向けた。 「俺も教室行こーっと」 葵はガラッと表情を変えた。 「せんちゃんと離れて歩きなさい」 いつも通りの豹変振りだ。 尭己は怯まずニコニコ笑みを保つ。 「はいはーい。あ、待て芹沢」 「待たなくていいですよ、せんちゃん」 保健室を出ていこうとする仙子に次々声がかかる。 「はーい」 どっち共に返事を返し、あっさりそこをあとにした。 保健室を訪れるものの名残惜しそうな引き際とは正反対だった。 「さっきの夢って、具体的にいうとどんな感じだったんだ?」 廊下に出るなり、尭己が追いついてきて横に並ぶ。 1階の特別棟にある保健室は、授業が終わってもひとけがない。外に出て行った元気者たちの声がかすかに窓から聞こえる程度だ。 「どんなって……?」 歩きながら、興味津々の顔をしている尭己に問い返す。 「昨日の公園の正夢のときリアルで夢とは思えなかったって言ってただろ?」 仙子は考えるまでもなくすぐに頷いた。 「そーね。今回も妙にリアルだったわ。普通の夢みたいにぼんやりしてなくて……」 それどころか、異常に鮮明だったことに気づく。プリントに書いてある問題も、はっきりしていた。 沼本の顔も、机の上にあったものも……。 「あれ? そーいえば一番前の真ん中の席に座ってたわ、私」 思い出し、不可解な気分になる。目の前に教壇があり、沼本がいた。 仙子の席は廊下側の後ろから2番目である。自ら希望していつもその辺りにしてもらうのだ。いてもいなくても目立たないような場所である。 夢の中では教師の目の前だった。居眠りでもできない。そんな席に座った経験すらない。 「銀色の重たいシャーペン使ってたし…」 手に持った感触も甦る。 「銀色の…」 尭己が神妙な顔で小さく呟いた。 角を曲がると1年の教室棟になる。二人とも一番奥の6組である。 一番手前は1組だ。仙子はその戸口に目を留めた。 「――あ、お花だわ」 「ん? ――おおっ、亮くん」 深刻な顔は一瞬だけだった。尭己は亮を見つけるなり大袈裟に喜んで声をかけた。 「げ、尭己」 廊下の向こう側をのぞき込むようにしていた亮は、振りかえって尭己に気づいた。わざと迷惑そうに顔をしかめて見せる。 尭己は残念そうな顔で苦笑した。 「げはないだろ、げは」 「だってお前すぐベタベタしたがるじゃん」 「純粋なコミュニケーションじゃないか」 「ぅわ…っ」 大柄な尭己に抱きつかれ、亮は慌てて膝蹴りを食らわせた。 「いってー。いーじゃん、減るもんじゃなし」 ダメージもなく、尭己はヘラヘラと笑っている。 亮は身を守るように身構えた。格闘技の構えを作るが、顔がかわいいので微笑ましいだけである。 傍から見ていた仙子は、呆れて肩を竦めた。 「神経が擦り減るわよ」 本気だと分かればだが、亮はまったく気づいていない。 遊んでいると思っているので楽しげな顔だ。親戚のお兄さんと遊んでもらっている子供のようである。 仙子が口を開いたことに、亮は少し驚いた様子だった。 「あれ、芹沢さんと一緒? 尭己と仲いいの?」 「いいえ、別に」 そっけなく言って、スタスタと歩き去っていく。 亮が勝手にイメージしていた芹沢家のお嬢様像とはちょっと違う気がした。 お嬢さま育ちで、おとなしくか弱く奥手な感じを想像していたが、わりとものをはっきり言うタイプなのかもしれない。 「…………」 傍らの尭己を見上げると、意味深にほくそえんでいた。 「困ったやつだ。甘えっ子のくせに」 「やっぱ仲いいのか?」 「まあ、普段人に見せない顔を見たことがあるっつーか……」 葵に対してである。 少し亮の嫉妬心をあおろうとしたつもりだったが、ニヤニヤ微笑まれてしまった。 「へー、大志に言ってやろ」 「なんで大志の名前が出てくるんだよ」 尭己はおもしろくないと顔に表す。 「別に〜」 亮は一人で楽しんでいる。 むすっと口を曲げていた尭己が、ふと気づいてキョロキョロと辺りを見まわした。 「そういえば珍しく大志が寄ってこないな。いつもなら亮くんに近づくとすぐ飛んでくるのに」 何もかもに無関心な素振りを見せながら、大志は尭己のすること全てを邪魔したがるのである。 尭己が亮にちょっかいをかけるのも気に入らないらしく、ひたすら二人を引き離そうとする。 その大志が、この状況で尭己に近付いてこないのはおかしい。 「さっき尭己に英語の辞典借りに行くって言ったら借りにいってくれて、返しに行くって言ったら返しに行ってくれたんだよ」 理由を聞き、尭己はフフンと得意げにほくそえむ。 「ほー、亮くんを俺に近づけまいとしたのが裏目に出たわけか。運命が俺たちに味方したんだな」 「なんだよ、運命って…」 「誰にも俺たちの仲は裂けないってことだ、うんうん」 「擦り寄るな、バカ」 「いーじゃん、ケチ」 肩にまわされた手を振り解く。頬擦りでもされそうな勢いである。 非難の声は無視し、亮はニコリとして長身を見上げた。大志より少しだけ高い。 「なんでお前ってそんなに大志に絡みたがるんだ? 幼馴染だろ? 仲良くしろよ」 嫌がらせである。尭己も大志も、お互いと仲良くするのは絶対にしたくないらしい。 尭己はフンと負けず嫌いな鼻息を吐く。 「そう言われましても。大志が俺に絡んでくるだけじゃん」 「挑発してんのはお前だろ?」 「俺が絡みたいのは亮くんで、それを邪魔するのが大志だ」 「じゃ、大志に感謝したほうがいいな、俺」 「ちが〜うっ」 わざと話の筋を逸らす亮を拗ねたように横目でにらむ。 素直そうな外見のくせになかなか曲者である。 尭己は一息つき、強引に話題を変える。 仙子がいないところで聞きたいことがあったのである。 「ところで亮くんの席って一番前だったよな?」 「え? 最前列のど真ん中」 亮はさらりと何気なく答える。 続けて尭己は確信を得るための質問もした。 「俺のあげた銀色のシャーペン使ってくれてる?」 「あれ使い勝手がいいから使ってる。あの重さがいいんだよ。力を入れずにスラスラ書けるから」 「…………」 尭己は急に真剣な顔になった。 何か考え込むように口を結ぶ。 「どうかしたのか?」 不思議そうな亮の声を聞き、誤魔化すように笑みを作った。 「いやいや」 いつになく真面目な目だったが、亮は尭己を考え込ませるような答え方をしたつもりはない。 「?」 不思議になって首を傾げたが、すでに尭己はヘラヘラいつも通りの顔だった。 教室の廊下側、後ろから2番目が仙子の席である。 「…………」 自分の席について、一番前の真ん中の席を見る。座っているのは平凡な顔立ちの女子である。確か手芸部だったかもしれない。 仙子は首を傾げつつ、やはり夢は夢なのだろうと考えた。昨日の深緑公園の夢があまりに現実と酷似していただけで。 黒板を消し終えた女子生徒が、自分の席に戻ろうと振り向いて仙子に気づいた。 「あ、芹沢さん戻ってきたの? 大丈夫?」 「もう平気よ、佐藤さん」 前の席に座っている佐藤亜由美は、おかっぱの保健委員である。 わりと世話好きで親切だが、あまり深入りしてこないところが便利である。 佐藤は仙子のほうを向いて横向きに椅子に座った。 「今の時間、保健室に行ってたのよね?」 「うん、そうよ」 「ノートとってあるけど見る?」 いつものように聞いてくる。 佐藤なら、仙子が化学の授業のときだけ体調が悪くなることに気づいているだろうが、特に何も言ってこない。 ノートを見せてもらってもチンプンカンプンだが、仙子は一応うなずいておいた。 「はい、これ」 「ありがとう。――ん?」 受け取って、仙子はいぶかしげに眉をひそめた。 佐藤がくれたのは英語のノートだったのである。 不審な目で見たが、佐藤は気にした様子もなく、少し神妙になって口を開いた。 「ねえ、芹沢さん」 「ん? なに?」 「おせっかいな忠告かもしれないけど……」 少々口ごもって仙子を窺うような目で見た。 さすがに化学の授業をサボりつづけていることでなにか言われるのだろうかと思ったが、佐藤はまったく別なことを口にした。 「昨日高岡くんと一緒に公園にいた?」 「高岡くん? 昨日は帰りに公園で会ったけど」 意外な質問である。仙子はまばたきして首をかしげた。 公園で一緒にいたことは確かである。 「それがどうかした?」 「うん…、あのね……」 チラリと周囲を見渡した。そばに本人がいないことを確認し、声をひそめる。 聞きとりにくい小さな声なのでおのずと顔同士が近づく。 「私、小学校が同じで……」 佐藤の言葉にふむふむとうなずく。本人からも小学校は近所だと聞いた覚えがある。 古い馴染みが同じ高校に通っていてもおかしくない。 そして、怖いとか下品とかではない俗な噂をたてられていると尭己が言っていたことを思い出した。 佐藤が言おうとしているのはそのことなんだろうと思い、神妙な顔でさらに耳を傾ける。 「――芹沢さん、わりと教室でも普通に話してるけどあの人昔……」 そこまで言ったとき、目の前にヒュンと壁が落ちてきた。 ダンッと机の上に乱暴にたたきつけられたのは、壁ではなく辞典だった。 仙子と佐藤の顔の間である。両者ともびくりと体をびくつかせた。 「佐藤さん、おはよう♪」 まばたきして我に返り、声の主を見上げる。 大志が珍しくにこやかな顔で佐藤を見ていた。 「び、びっくりさせないでよ、深田くん。芹沢さんも驚いてるじゃない」 佐藤は非難のこもった目で大志をにらんだ。 「あ、ごめん」 さして悪いとも思っていないような言い方である。 「いいけど……」 仙子は不審な目で大志をみあげた。 ひそひそ話を中断され、佐藤も不満いっぱいである。 「なんなのよ、急に人の教室にきて……」 ぶつくさと悪態をつく。 尭己と同じ小学校ということは、大志とも同じなのである。 大志は無表情な顔に戻り、仙子の後ろの席に辞書を無造作に置いた。 「借りたもん、返しにきただけ」 後ろの席は尭己の机である。 尭己は少し前に登校したばかりなのだ。要するに、勝手に取って行っただけだ。 大志は少しだけ凄みを利かせるような目で佐藤を見下ろした。 「それより、おしゃべりもほどほどにしといたほうがいいんじゃねーの?」 「う、だって……」 「…………」 口ごもった佐藤をさらに横目でにらむ。 迫力負けし、佐藤はフンと顔をそらした。 頬を膨らませながらも逃げるように席を立つ。もうすぐ授業が始まるが、友達の席へ遊びに行く。 「ふぅ……」 佐藤を追い払った大志は、軽くため息をついた。 仙子がじっと見ていることに気づき、思案するように口を結ぶ。 考えつつあごを触り、ひとりでうなずいて視線を仙子に戻す。 「……あのさ……」 「なに?」 不思議そうにまっすぐ見返す。 大志はなにかいいたげに口を開いたが、すぐにため息をついて口を閉じる。 「?」 「まあいいや……。これ、尭己に返しといて」 言いかけた言葉を飲み込み、ぽんぽんと机の上に置いた辞典を指でたたく。 「あーら、わざわざありがとう、大志くん」 「……来てたのか、お前」 大志は振り返って幼なじみの顔を見つけると、かなり嫌そうな顔をした。 逆に、尭己は上機嫌である。顔からわざとらしい笑みがこぼれていた。大志に見せつけるようである。 「かわい〜お花に挨拶してきた♪」 「なにがお花だ、変態」 尭己がお花と言えば亮のことである。それは大志も了解している。 普段からにやけた顔をこれ以上ないくらいにやけさせ、尭己は挑発するように大志に視線を送る。 「月と違ってお花は手が届くからいいよな〜。思わず摘みたくなるぜ」 尭己が言った途端、大志は顔をムッとさせ、同時にこぶしを繰り出した。 下腹部を狙った攻撃だったが、寸前で尭己の手に阻まれた。こぶしをつかまれてしまう。 「ちっ……」 「フッ…。相変わらす手が早いな、大志くん。お下品な性質は昔から治ってないみたいで」 互いに牽制するような目つきである。 どうでもいいが、自分の席の前でやりあわないでほしいと、仙子は密かに思っていた。しかしすでに二人の眼中に仙子はないのである。つまらなそうにため息をついた。 大志は手を振り解き、口をゆがめて尭己をにらんだ。 「校内一だらしないお前に品がどうこう言われたくねーぜ。シャツのボタンくらいきっちり上まで留めたらどうだ?」 「お前もちょっとネクタイがゆるいんじゃねーの? 俺が結びなおしてやろーか?」 「お断りだっ」 「怒るな、怒るな」 「お前を見てると怒りを催すんだっ」 「へー、俺のこと見てるんだ、いつも」 「誰が…っ」 ニヤニヤしてわざとらしくうなずかれ、大志は全身で拒否を示す。それをチャイムがさえぎった。 キーンコーンカーンコーンと無感情に流れる音に反応し、生徒たちがちらほらと自分の席に帰っていく。 「――ちっ」 大志は舌打ちして尭己をにらみ、雑な足取りで教室を出て行った。 それをにやけた顔で見送り、尭己は自分の席につく。 座り方もだらしがない。尭己の体格と容姿にあまり教室の机と椅子というものが似合わないのである。それも一因で、存在が浮いた感じになっている。 「やれやれ、困ったやつだ」 「どっちが……」 仙子が肩をすくめると、尭己はニヤリと口角をあげた。 「俺が」 「あら、自覚あるんだ?」 「ついついかまいたくなるんだよな、大志を見ると」 「月と花の次はなによ?」 訊くと、尭己はちょっと考えて答えた。 「そーだな、小鳥ちゃんか?」 仙子は眉をひそめた。一般的な大志のイメージとは離れている気がするが、尭己の言いたいことは分かった。 「花鳥風月って? 風流なことね」 「絵心があるんだな、俺。うん」 「なに言ってんだか……」 大志なら、小鳥というより鷹か鷲のような猛禽類だろう。 「あ、ちなみに風はお前じゃないぞ」 「はいはい、分かってます」 思いもしないことに釘をさされ、仙子はぶすっとして顔をしかめた。 そして、前の入り口から教室に入ってきた人物を見て仙子は目を見開く。 「おー、授業はじめるぞー」 「へ? 沼本先生?」 化学の授業はサボったはずである。ぽかんとして口を半開きにした。 仙子を見つけ、沼本はニコニコと笑みを向けてきた。 「お、久しぶりだな芹沢。頭痛はいいのか?」 「え、いえ、まあ……」 口ごもってしまう。戻ってきたばかりでさすがに今からまた、頭痛だから保健室とは言えない。 沼本は仙子の後ろに視線を移し、尭己を見つけてわざとらしく驚きの顔を作った。 「おお、高岡もいるのか、こんな時間に珍しい」 「へーい」 ヘラヘラと手を振って見せる。 沼本は教壇の上に抱えてきた書類の束を置きながら全員を見渡した。 「よっしゃ、小テストやるぞ、教科書しまえー。前からまわすから後ろに送れー」 あきらめた顔で生徒たちが教科書をしまいこんでいる。前から聞いていたことらしい。 仙子は焦って背後を振り返った。 「ちょっと高岡くん、なんで沼本先生なの?」 「化学だから」 あっさりと告げられる。 「ウソ…、今3時限目でしょ?」 「なに言ってんだ、まだ2時間目だぜ」 尭己はあきれたように肩をすくめた。 仙子は壁掛けのシンプルな時計に目をやり時間を確かめる。 時刻は10時を少し回ったところだった。確かに2時間目が始まったばかりである。 「…………」 だから佐藤は仙子に英語のノートを渡したのだ。 それに思い至り、仙子は自分のうっかり加減に落ち込んだ。 通りで尭己がえらそうに登校時間を誇っていたわけである。 「はぁ……」 「はい、芹沢さん」 「あ、うん」 肩を落として、前からまわされたプリントを受け取る。 「……――って、え?」 そのプリントに印刷されたものを見て、仙子は自分の目を疑った。 パチクリとまばたきし、怪訝そうに顔を近づけて見る。 「…………」 ありえないはずだが、そのプリントに見覚えがあった。さっき保健室で見ていた夢の中で。 唖然とした気分でじっくりと見つめてしまう。 問題の配置も図柄もまるで一緒である。詳しい文面までは定かではないが、どう見ても同じプリントだとしか思えない。 異変に気づいた尭己が肩越しにのぞき込んできた。 「ん? どうかしたのか、芹沢? あまりの難しさに気が遠くなったか?」 揶揄する口調だが、そんなことにはかまっていられない。 仙子は神妙な面持ちで首を後ろに向けた。 「さっき夢で見たのとまるっきりおんなじプリントなのよ、これ」 「…………」 尭己は一瞬黙り、すぐに鼻で笑った。白々しい微笑を向けてくる。 「へー。お前に化学の問題の区別つくんだ?」 そう言われ、仙子は思わず沈黙した。 「……うっさい。いいわよ、もー」 ぷりぷりとふてくされ、乱暴にプリントを一枚渡す。 「どーも」 おかしそうに苦笑し、尭己がそれを受け取った。 仙子は不機嫌な顔で、プリントに目を落とす。 絶対に、夢で見たものと同じである。いくらなんでもさっき見たばかりのものを間違えるはずはない。 首を傾げてじっくりと観察し、やっぱり同じだと確信する。 「…………」 しかし、答えはまったく書けそうにないい。夢で全問埋まっていたのが信じられない問題内容である。 そのへんはやっぱり夢だったと思うしかない。 昨日の夢といい今日のこれといい、予知夢のようなものを見ているのは確からしい。 少し先に見るものを夢で見ているのだからきっとそうなのだろうと考えた。 どうも保健室で寝るとヘンな夢を見てしまうようである。 仙子は化学の問題を考えず、夢のことばかり考えていた。 「ただいまー」 「あ、お帰り、亮」 亮が帰宅すると、即座に居間から弟が顔を出した。 秀は、ひとつ違いの中3である。誰が見ても一目で兄弟だと分かるくらい似ている。
写真なら、双子と言っても通るくらいだが、実際に会うとその違いは瞭然である。素直そうに笑うのが亮で、皮肉っぽく笑うのが秀なのだ。性格は違えど、秀は亮によくなついていた。お互いは、かわいい弟であり、かわいい兄である。 「待ってたんだよ、遅かったじゃん」 秀は2階に上がっていく亮のあとにくっついてくる。 亮はきっちりと結んであったネクタイをゆるめながら、カバンを秀に渡す。 「今日も大志んち寄ってきたんだよ」 「ふーん」 階段を上がったすぐそこが二人が共有している部屋である。 真ん中をカーテンで仕切り、左右対称に家具が置かれている。壁際がベッドで、その枕の方に机がある。 ドアのほうが亮のスペースで、奥が秀の場所だ。こざっぱりして清潔な印象なのが亮の方で、散らかりっ放しなのが秀のほうだとも言える。 実際は散らかりっ放しなのではなく、片付けても1時間で散らかると言うのが正しいが、どっちにしろ汚れているのだからどうでもいい。 亮は制服を脱いでハンガーにかけた。 「大志ってなんであんなに尭己と仲悪いんだろうな?」 「しらねーよ」 当然である。亮も返答は期待してない。 「あそこまで警戒することないのにってくらい警戒しまくりなんだよ」 「な〜、それより対戦やろーぜ?」 大志と尭己の仲に興味のない秀は、ゲームの対戦を持ちかけてきた。 秀はゲーマーなのである。異常に強く、近所のゲーセンではかなりの有名人である。 しかし、お小遣い日前の月末は金欠で、人にたかるか家でTVゲームをするしかない。 秀の誘いに、亮は否定的な顔をした。 「はあ? 俺は真面目に明日の予習するんだよ。ゲームやりたいならひとりでやれ」 「いーじゃん、一回だけ。機械相手じゃ頼りなくてさー」 子供っぽく媚びるような顔を作るが、亮は横目で秀を見た。 「俺はお前と違ってゲーマーじゃないの。どーせ負けるんだからお断り」 しかし秀はどうしても人間相手にゲームがしたいのである。 「亮の得意なやつでいいからさー。クロスカウンタージョーでもミラクルパパラッチェでも」 「やだ」 「ハンデやるからさー。なーなーなー」 「えーい、うっとうしい。お前も勉強しなさい」 命令口調で言われ、秀はフンとつまらなそうに顔をそらした。 「ケチ。一回だけって言ってるじゃん。ちょっと息抜きの相手してくれてもいいのにさ」 拗ねるように眉をひそめる。亮は秀のこの顔に弱いのである。秀も自覚している。わざとである。 思い通り、亮はやれやれと息をついた。 「…しかたねーな、お前は」 そのセリフをひき出し、秀は期待に満ちた顔で続く言葉を待つ。 「――30分だけだぞ?」 「よっしゃっ」 こぶしを作って顔を輝かせる。 「亮を陥落すんのに30分もかかんねーよ」 「くっ、生意気なやつ」 亮にしても秀の作戦だと分かっているが、ついつい甘やかしてしまうのだ。 秀はいそいそと部屋の奥へ引っ込んでいくと、棚からゲームソフトを何個も取り出した。 「準備してるから着替えたらこいよっ」 ドタドタと階段を降りて行った。 「はいはい…」 苦笑しつつ、亮は部屋着に着替えた。 「…………」 つい、大志と尭己のことを考えてしまう。 亮には幼なじみと言える存在がいない。小さいころはもっぱら秀としか遊んでいなかった。 なのであの二人の関係には興味を抱いている。 特に、大志の無愛想なところがけっこう気に入っている。好奇心を持ってしまう相手である。 宮野と石巻が大志と小学校以前からの付き合いだと言っていたはずで、そのへんの事情を聞けば不仲の原因が色々と分かるかも知れない。 居間からテレビゲームのオープニングの音楽と、秀の声が聞こえた。 「おーい、亮、まだか〜?」 「今行くから待ってな」 明日訊いてみようと思いつつ、部屋を出た。 仙子は夢を見ていた。 優しい両親と弟がいる夢だった。 なぜかなつかしい感じがした。 弟と二人で公園で遊んでいた。 青いジャングルジムのそばだった。 不意に犬が近づいてきて、ニャアと鳴いた――……。 「うーん……」 仙子は半覚醒状態でうなった。 ベッドの中である。目を閉じたまま、寝返りを打つ。 「ん〜……?」 なにか違和感を感じる。 半分寝ながらも不可解な気分で眉をひそめる。 布団の肌触りがいつもと違うのだ。 そのことに気づき、ぼんやりと目を開けた。 「…………」 まだ室内は薄暗く、ベッドで横向きになっている。 クリーム色のカーテンで仕切られた狭い部屋だった。布団は薄緑である。 薄目のまま、瞬きした。 「……え……」 しばらくボーっとし、唐突に目が覚める。 ガバッっと身を起こし、呆然とした。 「な…、なにこの部屋……」 パチクリと意識的にまばたきする。 「――――ん?」 目を開けると天井が見えた。 仙子は仰向けに寝ているのである。 布団は各務の選んだピンク系だ。 「あれ……?」 頭をふかふかの枕に沈み込ませたまま、仙子は唖然とした顔で再度瞬きを繰り返した。 「私の…部屋よね……?」 不思議な気分でゆっくりと再び身を起こす。 ちょっと前やり終えたはずの動作ある。 「…………」 キョロキョロと周りを見まわすが、クリーム色のカーテンのしきりも、薄緑色の布団も当然見当たらない。 頭痛がした人のように頭を抱えた。悩んでしまう。 「2度目の目覚めだわ……」 貸し切り保健室の奥の部屋で、葵は仙子と尭己に紅茶を淹れていた。 3時間目終了後の休み時間である。 やってきた尭己を追い払おうとしていた時、仙子が現れてそのまま3人でお茶会になってしまったのだ。 最近いつも尭己がいるのは葵としてはかなり不満だった。 今もまた、仙子は夢の話を葵よりも尭己に聞いてほしいようで少しおもしろくない。 葵が淹れたお茶を当然のように口にし、尭己は怪訝な顔をして仙子を見た。 「夢の中で夢を見てた?」 仙子は憂鬱そうにため息をつく。 「そうなのよ。起きたのに、また起きたの」 「複雑ですね、せんちゃん…」 仙子は葵に向かって頷いた。 尭己は少し考え、自分自身にうなずくようにした。 「夢の中の夢なら、夢中夢だな」 「むちゅうむ?」 難解な漢字を読むような発音で仙子が聞き返す。 「文字通り、夢の中の夢。夢だったのかと思ってる自体がまた夢だったって感じだ」 尭己は思い出すように上方に目をやりつつ説明し、案外真面目な顔で仙子を見た。 「夢の中の夢はどんな夢だったんだ?」 仙子は難しい顔で考え込み、腕組みして首を傾げる。 「……――覚えてない。なんかなつかしかったような気もするけど」 「ふーむ」 「小さい頃の夢だったんじゃないですか? 深緑公園の夢のときみたいに」 「そーでもない感じ。あんまり現実感もなかった気がするし」 「そうですか……」 夢の中の夢は、普通の夢だった。辻褄の合わない、非現実的で飛躍的な取り留めのない垂れ流し映像のような感じだ。 そのあとの、1度目の目覚めの方は最近見る不思議な夢のように、異常なほどのリアリティがあった。 仙子は無言で紅茶をすすり、重くため息をつく。 「はあ…、家に帰ってまで変な夢を見るなんて……。保健室でしか見ないと思ってたのに。夢見が悪いと憂鬱になっちゃうわ」 どんよりした仙子に、葵は困ったような笑みを向けた。 「気にしないほうがいいですよ、せんちゃん」 「そうそう。別に害がないからいいじゃねーか」 対する尭己は、ヘラヘラといつものように能天気でわざとらしい笑みである。 「正夢、逆夢、夢中夢とくれば、次は白昼夢かな〜」 「…楽しんでないです?」 葵が不愉快に尭己をにらむ。 「全然。芹沢が苦しんでるのに楽しいわけねーじゃん」 「顔が笑ってますけど…」 「え〜?」 「ったく…」 尭己の楽しげな顔を見て、仙子はフンと鼻息を吐いた。 「あ、そうだ、せんちゃん。さっきクッキーもらったんですけど食べます?」 「食べる」 「……君じゃありません」 表情を豹変させて尭己をにらむ。 「もらうわ」 仙子が言うと、ころっと笑顔を作っていそいそと棚から包みを取り出した。 白い皿を用意し、紙を敷いてクッキーを適当に並べる。 アーモンドスライスが入ったおいしそうなものだ。どう見ても手作りである。 仙子は遠慮なく手を伸ばし、ひとつとって口に入れる。 尭己もクッキーをつまみ、口に入れた。 「お、うまい」 「君には勧めてませんけど」 葵にあきれた目で見られたが、次々ほおばる。 さっくり感がなかなかおいしい。 「まーまーね」 「上出来だろ?」 仙子の少々厳しい採点に、尭己は肩を竦めた。 「葵さん、誰にもらったの?」 「2年のなんとかっていう生徒です」 「昨日のかわいい子?」 化学と間違えて英語をサボったときにいたショートカットの2年生を思い出したが、葵はふるふると首を横に振った。 「違います。これを持って来たのは男子生徒ですから」 「へーうまいもんだ」 尭己がニヤニヤと誉めた。 「てゆーか、名前くらい覚えてあげなさいよ、葵さん」 「いーんですよ、どーせ自己満足なんですから」 葵に平然と薄情なことをいわれ、仙子はやれやれと首を竦めた。 「で? かわいい子?」 期待に満ちた目で尭己に訊ねられ、葵はフンと鼻で笑った。 「ラグビー部のむさ苦しい感じの男子です」 「げ……」 尭己は突然まずい顔をする。 「なによ、おいしいからいいじゃない」 「何言ってんだ、こういう手作りクッキーってのは舌で味わうもんじゃねーんだよ」 「あんたこそ何言ってんのよ……」 「心で味わうもんだろ?」 「顔で味わってんじゃないの?」 「ただの面食いですね」 「悪いか」 フンとそっぽを向くが、味はおいしいのでクッキーは食べつづけている。 「うちのシェフだってムサイ巨漢だけどおいしいもの作ってくれるわよ?」 「別次元の問題だ」 プリプリ怒っている尭己を葵はあきれた目で見た。 「まったく……。人の出したクッキーにケチをつけないで下さい」 「……俺に勧めてくれてねーじゃん」 反論がなかったので、尭己は拗ねた顔で紅茶をすすった。 仙子も紅茶を飲み、思い出したようにため息をついた。 「それにしても一度目の目覚めがへんだったのよね。自分の部屋じゃなかったから」 また夢の話に戻る。 尭己が興味を浮かべた目で仙子を見る。 そんな尭己に葵が冷たい視線を送っていたが、仙子も気づいていなかった。 「他人の部屋?」 「っぽい」 思い出して説明する。 「ベッドがいつもと違うような気がして目が覚めて、見たら全然見たこともない部屋だったの」 「誰の部屋です?」 じろりと葵が厳しい目でにらんできた。 「夢だってば、葵さん…」 苦笑して首を傾げる。 「狭いけどわりとこぎれいな部屋だったわ」 「じゃ、俺の部屋じゃないな、絶対」 「コ汚いんでしょうね」 「ご名答」 葵の冷たい指摘に素直に頷く。 「で、具体的にいうとどんな部屋だったんだ?」 訊ねると、仙子は腕を組んで首をひねった。難しい顔で考え込んでしまう。 「夢中夢でも寝起きだったからよく覚えてないんだけど。たしか部屋がカーテンで仕切ってあったわ。ベッドカバーは薄緑色で……」 「そんなことを聞いてどうする気ですか?」 ピシリと鞭打つような口調で葵が言った。 「え……、いやいや」 疑うような顔で見られ、尭己は慌てて誤魔化すように笑う。 「特殊能力かもしれないと思ってだね、うむ」 葵は不審顔をあらわにして尭己をにらんでいた。 「…………」 「……なんだよ」 葵の態度に、さすがに尭己も不機嫌な様子になった。思い当たるふしがないこともない。 二人とも冷たくにらみ合っている。 仙子は戸惑って眉をしかめた。 葵はともかく、尭己の真面目に不快げな顔は初めて見るのだ。ふざけてむすっとすることはあったが、今は本気でむかついているようだ。 いらついているのが分かる。 葵がいつも以上に冷淡な顔で尭己から目を逸らした。 「せんちゃんをキミと一緒にしないでください」 仙子は訝しげに葵を見た。言っている意味が分からない。 「……なんだって?」 一瞬間を開け、尭己が目を眇める。 普段見ない顔だけに、ぞくりとしてしまう。 「いいえ、なんでもありません」 つんとしてそっけなく答える。 尭己は皮肉っぽく口角で笑みの形を作る。 「なにか言いかけたじゃん? なんだよ」 予想はついている。挑発の意味をこめて葵を見つめる。 葵は尭己を一瞥し、あっさり視線を逸らす。 「キミに関する噂のことです」 「やっぱりそれ? 前から妙に俺を嫌がってたよな、葵さん」 「ヘンな噂のある人間をせんちゃんに近づけたくないんです」 「噂ってなんなの?」 様子を窺うのが面倒になり、仙子は二人の会話に口を挟む。 大志のせいで佐藤から聞きそびれたので、その噂とやらをまったく知らない。 「…………」 尭己は黙って仙子を見つめた。 思案するように眉をしかめて口を歪め、最後にはため息をついた。 「なんでもねーよ」 そう言ってソファから立ちあがる。 「あ、ちょっと…」 「せんちゃん」 部屋から出ていく尭己を追おうとした仙子をひきとめるように葵が呼ぶ。 「…………」 仙子は振りかえって不機嫌な顔で葵をにらんだ。 そして、部屋を出て戸を閉めた。 「ちょっと高岡くん」 廊下に出て、長身の後姿を呼びとめる。 尭己はちらりと後ろに視線を向けただけで、足を止めるつもりはないようだった。 仙子は一歩後ろについて歩き、わざとらしくため息をついた。 「戻ったほうがいいんじゃねーの、ウサギちゃん。お月様が心配するぜ?」 「月にウサギなんか住んでないわよ。クレーターの影をそう見る人がいるだけだわ」 「…………」 皮肉っぽい仙子の口調に尭己は少し意外そうな顔をしたが、歩くのはやめない。 「なによ、あんた噂なんか気にするタイプじゃないでしょ?」 「うるせー。俺だって意外とデリケートなんだよ」 拗ねたような言いかたに、仙子は多少うんざりしてきた。 「ねー、ちょっと……――」 急に口を閉ざす。 不思議そうにぱちくりと瞬きしたが、前を歩いている尭己は仙子の異変にまるで気づいていない。 「あれ、尭己?」 仙子が、首を傾げながらそう呼びかけてきた。 これには思わず足を止めてしまう。 「……へ?」 尭己は振りかえって仙子を凝視する。 普段見たこともないくらい素直そうな表情になっていた。 左手で自分の喉を押さえ、眉をひそめる。 「あれ、俺、声が……。あ〜。なんか高くねー?」 「お、俺?」 「てゆーか、なんでこんなところに……」 キョロキョロと辺りを見まわすと、小首を傾げて上目遣いで尭己を見た。異常にかわいいしぐさである。 仙子の性格ではあり得ない。 「…………」 いつもとあまりに違うので、唖然として声をかけあぐねる。 そして、あることに思い至った。 「おい……」 「……え?」 まばたきのあと、美人だがかわいげのない仙子らしい顔が戻ってきた。 「……芹沢?」 「え?」 仙子は尭己を見て、首を左右に向けて居場所を確かめるようにした。 尭己は息を飲み込む。 確証を得た。 「お前今……」 「な、なんか別のところにいたわ、私…」 尭己の言いかけた言葉を聞く余裕もなく、びっくりしたように言った。 仙子はとりあえず安堵の息を吐いたが、不可解な気分は払えなかった。 「白昼夢なのかしら……。意識が飛んでったみたいな……」 「…………」 尭己が真剣な顔で仙子を見つめる。 それに気付き、仙子は怯んだように頬を軽く引きつらせる。 「そんな深刻な顔しないでよ、怖いじゃない」 「あ、いや……」 そう言いつつも、深刻な目でじっと仙子を見つめる。 「な、なによ」 長身の金髪なので、キリンに見下ろされているような気分だ。 尭己は仙子を見つめてしばらく考え込み、勝手に一人で納得したように頷いた。 「なんでもない。じゃーな」 「じゃーなってあんた、学校終わってないわよ?」 「いーの、いーの」 ヘラヘラと笑いながら手を振る。 すでにいつもの尭己に戻っていた。 立ち止まった仙子をその場に残し、廊下をまっすぐ歩く。 確かめなければいけないことがある。 「やっぱ自分のしたことの責任は取らないといけないか…」 やれやれと小さく呟き、口を結んだ。 1年1組である。 次の時間が体育なので、ここに残っているのは極少数だ。 「……――ん?」 亮は我に返ってまばたきした。 宮野と石巻が不審な目で亮の顔をのぞき込んでいる。 「だ、大丈夫か、リョウリョウ?」 「しっかりしろっ」 「え……?」 瞬きを繰り返す。 自分の教室の自分の席だ。最前列のど真ん中である。 「え、お、俺、どうかした?」 亮が言葉を発すると、二人は心配顔を解いて息をついた。 そして、人迷惑を責めるような顔になる。 「私なんでこんなところにいるの? ――って言ったぜ?」 「急に別人みたいな顔になってだ。人格交替したみたいにな」 「そうそう、それそれ。多重人格の人みたいだったな、ミヤ」 「不審人物を見るような目つきされちゃったぜ、俺たち」 「なあ?」 二人で顔を見合わせて同時に首を傾げる。楽しそうにけらけら笑いながら何度か繰り返した。 「マジで?」 亮が訊くと、宮野がすかさず頷いた。 「いつも無防備なリョウリョウが警戒するような目つきで」 「うんうん。人が替わってたな、確かに」 石巻も同意し、二人で亮の様子を窺う。 亮はなんとも言えない不思議そうな顔で首をひねった。 「俺、瞬間移動したのかなあ?」 悩んでしまう。 宮野と石巻は怪訝な顔でまた亮の顔をのぞき込んできた。 「おいおい、大丈夫か? リョウリョウ」 亮は考え込んでうなる。 「今、廊下であいつに会って、なんでこんなところに――って……。うーん……」 ――私なんでこんなところにいるの? そう亮が言ったらしい。まったく記憶にはない。というより、記憶がすりかわっている感じである。 亮は廊下で尭己に会い、それとそっくりなセリフを言った。 わけがわからず首を傾げる。 「今ってなんだよ、リョウリョウ、ずっとここにいたぜ?」 「そうそう、別人格にはなったけど」 「うーん……」 腕を組んで悩むが、考えても分かりそうにない。 力を抜いて腕をほどいた。 「まあいいや」 「いいのか〜?」 「いいんだろ。リョウリョウがそう言うんなら」 石巻は少し心配そうだったが、宮野は能天気に頷いた。 「それより、二人に聞きたいことがあったんだよ。大志がいないうちに」 大志は体育委員なので先に行って授業の準備をしているのである。 自分の職務はきっちりこなすタイプなのだ。 このときを狙って、尭己と不仲な原因を二人に訊こうと計画していた。 「大志がいない方がいいということは大志についてか…」 「いや、あの…」 勝手に決めつけて宮野が一人で頷く。亮の困った顔に頓着せず、語り出す。 「そうだな。大志は家柄のわりにおおざっぱで粗雑で不器用で何かにつけてよく怒る」 「違うって…」 訊きたいのは大志の性格ではなく尭己との不仲の原因だが、宮野は勘違いして首を振った。 「なんだ、かばうことないぞ、リョウリョウ」 「じゃなくて……」 「今はおとなしいが昔は……」 宮野は人の反応を見るのは好きなくせに、人の話は聞かないのである。 「だから、俺が聞きたいのは大志じゃなくて尭己の…っ」 声を大きくしてそこまで言うと、宮野の表情がピキッと凍りついた。 「…………」 石巻も同様に硬直している。 二人の反応に、亮は困惑してしまう。 宮野が止めていた息を吐き、下から窺うような目で亮を見た。 「――た、たか、高岡尭己のこと?」 「そうだよ。大志と尭己って仲悪いじゃん。なんで?」 あっさり何気なく訊くと、二人は顔を見合わせてかいてもいない冷や汗を拭う。 「そ、それは……」 「おれたちの口からは……」 「なんだよ? 言えないようなことがあるのか?」 目をぱちくりさせて訊く。 二人とも軽く身震いさせた。 「お、恐ろしい……」 「くわばら、くわばら」 「なんだよ、いつもはおしゃべりなのに」 不満げに口を尖らせる。 「だってあいつは――」 石巻が神妙な口調で何か言いかける。 「ダメだっ、マキマキっ」 「うわっ」 石巻がタックルで石巻の口を封じる。さすがの石巻も宮野の行動は予測不能だったらしい。よろけている。 そして石巻に抱きついたまま、宮野は亮に忠告めいた視線を向けてきた。 「俺は――リョウリョウには前から言おうと思ってたんだ」 「……そうだな」 「な、なんだよ」 石巻にも真剣な顔で見つめられ、少し怯んでしまう。 二人は顔を見合わせて頷きあってから亮に顔を向けた。そして、石巻が神妙に口を開く。 「……やつには近付かない方がいいぜ?」 「うむ。あいつは……――ああっ、これ以上はとても言えないっ」 宮野が大袈裟にのけぞる。口を押さえて首を振る。 「なんにも言ってないじゃん……」 演技がかり過ぎてあきれてしまう。亮はうんざりした顔で肩を竦めた。 「とにかく、触らぬ神になんとやら……」 「俺は関わりたくない〜っ」 「なんだよ」 いい加減にしてほしいと思ってしまったとき、不意に宮野が本気で真剣な目になった。 「だから、やつは――神なんだ――……」 「……へ?」 思いがけない単語に唖然とする。 不信感を持って二人を見たが、すでに騒ぐこと自体を楽しみ出しているのでこれ以上は聞けそうにない。 「うわ〜、うわ〜」 「怖い怖い怖い〜っ」 そう言いながら遊んでいる。 「おーい……」 もう亮の話を聞いてくれそうにもない。 「なんなんだ? 神って……」 一人呟き、首を傾げた。 室内に一人残され、葵は少し落ち込んだ顔でテーブルの上を片付けた。 カップを洗いおえて奥の部屋から保健室の方へ戻ると、ちょうど仙子も戻ってきたところだった。 「葵さん…」 難しい顔で上目遣いに葵を見る。 葵は非難めいた視線で仙子を見つめ返した。 「せんちゃ〜ん……」 「そんな恨みがましい目で見ないでよ」 うんざりした感じでため息をつき、そこにあった椅子に腰掛ける。葵もいつもの椅子に座った。 「せんちゃんを心配してるんです」 「……分かってます」 反論が浮かんだが、仙子は黙って頷いておいた。 葵は少し苦い顔をして訊ねた。 「彼は?」 「傷ついて帰ってったみたいよ? 意外とデリケートらしいから」 「あの図太いのがそんなタマですか?」 皮肉っぽい口調で言われ、葵はフンと冷たい口調で返した。 仙子は肩を竦めると、複雑そうな顔になった。 「それより……私、とうとう白昼夢まで見たみたい」 「白昼夢ですか…?」 まばたきして聞き返す。 仙子は腕を組んであごに手をやる。考えるポーズを作り、首をひねった。 「廊下にいたのに、いきなりどこかの教室にいて……」 もどかしい顔で口をゆがめる。どう説明したらいいのか分からないようである。 葵は眉をひそめた。 仙子が出て行ってから帰ってくるまでは短時間だった。 無意識に歩いて行ったということはまずありえない。 仙子が不意に目を瞑ってこめかみを押さえた。 ピリッと偏頭痛を感じたような顔だ。 「どうしました? せんちゃん?」 「ん……。あれ?」 仙子はすぐにしかめっ面をやめ、葵を見てパチクリとまばたきした。 急に不可解な表情になる。葵を不思議そうな目で見る。 「…………?」 葵は不審げに眉をひそめた。 仙子の表情がいつもと違う。 きょとんとして妙に人懐こい顔をしている。葵に初めて見せる顔である。 急な変化に戸惑ってしまう。 仙子は小首を傾げた。 「藤谷先生?」 「…………」 思わず絶句してしまう。 「ふ、藤谷先生って……」 頬を引きつらせて顔をしかめた。 長い付き合いで、そんな他人行儀に呼ばれたのは初めてだ。小さいことから知っているのだ。 かなり動揺していた。頭がくらくらする。 しかし、仙子はそんな葵を気にせず、きょろきょろとあたりを見回す。 「あれ? 俺、どうして保健室なんか……」 「お、俺……?」 さらに衝撃を受けた。 仙子の口から出た言葉とは思えない。 性格は悪くとも育ちはいいのである。自分のことを俺などと言うはずがない。 葵はなにも言えずにただ仙子を凝視した。 愕然としている葵にはあまり関心がないようで、仙子はとりあえず室内中を見回し、それから自らを見下ろした。 「……え!? ス、スススカート――!?」 女子の制服はセーラー服にスカートだ。 仙子は立ちあがり、慌ててスカートを持ち上げた。 「うわっ、じょ、女装っ!?」 いつも通りの制服姿にもかかわらず、仙子は自分の格好を見て異常に興奮している。 「か、鏡っ!!」 髪や顔を触って異常事態を感じたらしく、洗面台の上に備え付けられた鏡の前へ跳んでいく。 「…………――!!」 自分の顔を見て目を見開いた。 「ぅわぁっ!! 芹沢さんっ!? お、俺? 俺が、芹沢さんっ!?」 一瞬絶句し、すぐに叫び声をあげる。 言っている内容は傍から見れば意味不明である。 仙子がいつも通りの仙子の顔を見て異常に驚いている状態だ。しかも自分の名前を連呼している。 「ど、どうしたんですか? なにかに取り憑かれたんですか?」 我に返った葵が、慌てて仙子に走り寄る。 仙子は眉間に思い切りしわを寄せ、憮然として振り返った。 「と、取り憑くって……」 そしてまた鏡の中の自分を見てから、不安げに葵を見つめる。 「俺が芹沢さんに取り憑いてるってこと?」 そう言われ、葵ははっとして息を飲んだ。 自分で言ったことの意味をようやく理解したような感じだ。 「何者なんですか、君はっ? せんちゃんの中から出ていきなさいっ」 強く言われ、仙子の顔が不機嫌にムッとした。 「俺だって好きでこんなことしてるわけじゃないっての」 「や、やめてください、せんちゃんの顔でそんな言葉遣い…っ」 事態に慣れてきたのか、仙子は開き直ったように口を尖らせた。 「そんなこと言ったって、中身は違うんだもん。しょーがねーじゃん」 「中身が違うって……。誰なんですか、君はっ」 「え、俺は――……」 言いかけたとき、ガラッと乱暴に保健室のドアが開かれた。 開けたのは、かわいい顔をした小柄な男子生徒である。 走って来たらしく、軽く肩を上下させている。 「あ、俺だっ!」 仙子がその人物を指差して明るく叫んだ。 「あ、葵さん、私……」 そっちの男子生徒が、息継ぎしながら切迫した顔で葵を見つめる。 仙子の顔を見て口元が引きつっている。 その表情には嫌というほど見覚えがある。 「……! せんちゃん――――ですか?」 「俺、俺。あれが俺だよ、藤谷先生」 仙子がニコニコと葵に訴える。 男子生徒のほうは異常事態を訴えかけるような目である。 葵もその男子生徒の顔はさすがに記憶にあった。 かなり目立つ存在で、校内の有名人なのだ。 「たしか……1年1組の――」 「――川名亮」 仙子が人好きのする笑顔でそう答えた。 |