Crow the fake sun

「真昼に見る夢」-3



     第三章


「…………へ? ――お花……?」
 亮が胸を押さえ、喉に詰まったものを意識的に飲み込むような動作をしたあと、パチクリとまばたきをして呟いた。
 ニコニコしている仙子をなんともいえない目で見つめ、その後ろに鏡があるのを見つける。
「あ、そうだ、鏡っ」
「こっちこっち、俺俺」
 仙子が手招きし、亮は急ぎ足で鏡の前に立つ。
「わっ。なにこれっ。気持ち悪いっ、他人の顔になってるっ」
 引きつった顔で驚きを表し、眉間にしわを寄せて思い切り動揺している。
 認めたくない気持ちでいっぱいなのである。頭を振って否定したがっていた。
「き、気持ち悪いって……。俺だってすげー違和感あるよ」
 仙子が不満げに口を尖らせるが、亮は鏡に釘付けである。
「やだ、なにこれ、どーして?」
 顔を近づけたり離したりするが、当然人物の顔がいきなりぐにゃりと変化することはない。
 何度見ても、いつまで見ていても、亮の顔は亮の顔のままである。
 どうなってるのとくり返し言っては首を振る。
 それを見ていた仙子が、不満ありげにため息をつく。
「……俺の顔で女言葉やめてくんない?」
「き、君こそせんちゃんの顔で俺とか言わないで下さい」
 どうにか精神の衝撃から多少立ち直った葵が、仙子の言葉に反論した。
 二人の中身が入れ替わっているような感じだとは思ったが、とても心底信じられない。
 仙子はきょとんと葵を見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「藤谷先生、せんちゃんって芹沢さん?」
「う……。藤谷先生って……」
 また目眩がした人のように頭をくらくらさせる。
「落ち込まないでよ、葵さん」
 亮の口が仙子の口調でそう言ったが、葵は肩を落としたままである。
「その顔で慰められても嬉しくないんですけど……」
「……あんた、慰めてあげてよ」
「え……」
 ムッとした亮に言われたが、仙子は少し戸惑った顔をした。
 葵と亮を交互に見て、仕方ないという顔になる。
「んじゃ……、えーと……ゴホン――」
 葵が少し期待するような目で見てくる。
 仙子はその肩をぽんぽんとたたき、にこりと微笑んだ。
「しっかりしろよ」
「う……。そんなのせんちゃんじゃない……」
「バカ……」
「…………」
 思わず沈黙してしまう。
 葵にはさらに落ち込まれ、亮には横目でにらまれた。
 しかしこんなことにかまけてられるような状況でないことは明らかである。
「だーっ! いい加減にしてくれ。俺たちの方が混乱してるんだからっ」
「そーよ、葵さん」
 仙子が仙子らしからぬ調子で言い、亮が女言葉でそれに同調した。
「……そ、そうですよね」
 とは言ったものの、少し慣れてきたとはいえ普段の仙子からのあまりの変貌ぶりは許容しがたいものがある。
 すぅはぁと深呼吸し、葵は二人を見比べた。
「…………」
 これまでの両者のようすからいうと、中身が入れ替わっているというのが正しいように思える。
 しかしそういう非現実的なことをとてもすんなり受け入れられるわけがない。
 そうかなと思っていても、脳がそれを否定したがるのだ。思考がまだ結論にたどり着いてはいない。
「一体どうしたっていうんですか?」
 そう訊くと、仙子と亮は困ったように顔を見合わせた。
「そんなの……」
「俺たちの方が聞きたい」
 葵は頭を抱えた。
 しかし、実際に混乱しているのは当人たちのほうである。
 亮が口を開く。
「一瞬気が遠くなって、気付いたら突然別の場所にいたかと思ったんだけど…」
「実は中身が交替してたってことですか?」
「まあ、そういうことなんじゃないかしら」
 そう言って、亮は同意を求めて仙子を見た。
「だろうけど……」
「ん? なに?」
 仙子に反感を持った目で見られ、亮は眉をひそめた。
「言葉遣いがぁ……」
 悲劇的に仙子が嘆く。
 亮は軽く肩をすくめた。
「いいじゃない、女顔なんだから」
「余計よくないんだよっ」
 男の子っぽい口調で怒鳴られ、亮はつんと顔をそらす。
「うるさいわね。人に言う前にあんたこそその乱暴な言葉遣いつつしんだら?」
 ジトリと横目でにらまれ、仙子は口元をひくつかせた。
 確かに女子のセーラー服姿で、しかも仙子の顔でこの態度はないかもしれない。
 屈辱的だが、ここは仕方が無い。覚悟を決める。
「……わ、分かったわよ。うふ」
「変になよなよしないでよ……」
 仙子のしぐさに、亮が不快げな反応を示した。
 それを不満いっぱいににらむ。
「…………。ほれ、言葉」
 言われて、亮のほうも口元をひくつかせる。
「え、えーっと、……なよなよするなよ?」
「そうそう」
 とりあえず満足してうなずく。
 そんな二人を葵は困惑したまま見ていた。
 精神的には受け付けないが、どう見ても二人が入れ替わっているとしか思えない状態である。
 認めざるを得ない。
 葵はため息をついて肩を落とした。
 言葉遣いがどうこう言う前に、確認しなければならないことは大量にあるはずだ。
「二人とも遊んでないで下さい」
「別に遊んでるわけじゃ……」
 中身は仙子でも、亮の顔で不満げにされるとつい冷たい目で見てしまう。
「どうやったら戻るんです?」
 苛立った調子で訊くが、当然二人とも首を傾げるばかりである。
「どうって……、自然に治るんじゃないかしら……」
「こ、このまま元に戻らなかったら…?」
 仙子の顔が蒼白になる。
 しばし間を置いて言葉の意味を理解し、亮の目がぱちくりと瞬きした。
「え……」
「…………」
 二人が呆然と顔を見合わせる。
 元に戻ると言う保証があるわけではないのだ。そのことに気づいてしまったのである。が――、
「――あ、戻った」
 突然、亮が亮らしい顔でそう言った。華やかで人目をひく明るい表情である。
 仙子のほうも、普段の仙子の顔に戻っている。一見お嬢様然とした雰囲気だ。
「……ふぅ。あんまり変なこと言わないでよ、怖いわね」
 安堵しつつも、さっきの言葉が衝撃だったようで、横目で亮をにらんだ。
 葵もホッとしたようである。緊張感が切れてゆるんだ顔になっている。
「せんちゃん〜。よかったですね、元に戻れて」
「ホントにだわ」
 まったくである。
 あのままずっと仙子が亮のままで、亮が仙子のままなど冗談ではない。
 一生他人になりすまして生きていけるわけがない。想像してぞっとした。
「しかし突然でしたね、戻るのも」
 葵が心配そうに仙子の顔をのぞきこむ。
「なんともないですか?」
「大丈夫よ」
 その二人の様子を亮がじっと見つめる。
 人から聞く限りでは、葵は異常に冷たいはずである。
 意識を失って運ばれようと、ひどく流血していようと、心配のかけらも見せないと聞いている。
 淡々と治療し、終わればすぐに追い返される。非常で冷淡だという噂だが、仙子に接する態度を見る限りそうは思えない。
「藤谷先生と芹沢さんって仲いいの?」
 亮は素直に疑問を口にした。
 噂が当てにならないのか仙子が特別なのか、後者のような気がしないでもない。
 じろりと、仙子が牽制するような目を向けてきた。
「悪いけど他言無用よ。校内で敵を作りたくないの」
 葵と親しいのだと認めた上での言葉である。
 おとなしいと思っていたが、どうやら仙子は裏表のある人物らしい。
 この前廊下で会ったときも、尭己がそんなようなことを言っていたかもしれない。
「ふむ。独占禁止法に引っかかるからな」
 とりあえずうなずいておく。
 葵が少し迷惑そうに咳払いした。
「それより――入れ替わるって…どんな感じなんです?」
 神妙な顔で仙子と亮を交互に見つめる。
「急に一瞬前と違う場所にいるだけよ」
 さらりと仙子が説明する。
「保健室にいたはずなのに、まばたきしたら知らない教室にいたり。自分では瞬間移動してる感じね。人から見たら多重人格に見えるかもしれないけど」
「……なるほど。確かにさっき、そういうふうに見えました」
 不審げな顔つきをしながら、葵はあごに手をやりつつ椅子に腰掛けた。
「しかし、どうしてそんなことになったんです? 原因に心当たりは?」
「さあ?」
「…………」
 あっさり投げやりな答えを返す仙子に困ったような視線を送る。
 ちらりと亮を見たが、亮の方もまったく原因らしきものは思い浮かばない。
 仙子と話すのもほとんどこれが初めてで、廊下でぶつかったとかそういう入れ替わりそうな事件はなにもない。
「あれ? ということは……」
「どした?」
 唐突に仙子がなにか思い出したような顔をした。
 ポンと手を打ってひとり納得してうなずく。
「さっきの白昼夢も、コレよね?」
「白昼夢?」
「ちょっと前、廊下でも入れ替わったでしょ?」
「あー、尭己がいた」
「そうそうそれそれ。夢かと思ったけど、あれってやっぱり入れ替わってたのよね?」
「だろうな。宮野と石巻になんでこんなところにって言っただろ?」
 訊かれて、仙子はそうかそうかとくり返しうなずいた。
「今までの不思議な夢って全部コレだったのよ」
「夢?」
「えーと…、深緑公園からの夢ですか?」
「なにそれ?」
 首をかしげる亮に、仙子はなぜか得意げな顔を作って見せた。
「この前深緑公園の夢見たのよ。最近全然行ったことないのに、今の状態がリアルに再現されてて――」
「ふーん?」
「見に行ったら実際その通りだったんだけど、今思えばあれは川名くんの見た光景だったんじゃないかしら」
「それっていつの話?」
「えっと…、3日前だったかしら」
「放課後? うーん、そういえば深緑公園で記憶が飛んだかも……」
「後ろから肩叩かれて戻ったのよ」
「あ、それ大志だ」
 仙子の言葉と自分の記憶が合致し、亮は人差し指を立てて目を輝かせた。
 宮野と石巻を待ってボーっとしていたとき、いつのまにか大志が背後に立っていたのだ。
「立ったまま寝ぼけるなとか言われた」
「やっぱり」
 仙子の考えは的中した。
 今まで見た変な夢はすべて亮と意識が交代していたようである。
 先月塗り替えたばかりのジャングルジムの色や、遊歩道の舗装の乱れ方にベンチの塗装のはがれ方など細部までが一致していたのだ。実際に見ていたとすれば不思議はない。
「でもそのとき俺、せんちゃんになった記憶ないけど?」
 すんなり亮の口から出た呼称に、葵がピクリと反応する。
「なんですか、なれなれしい。せんちゃんなんて……」
「え? いいじゃん。他人じゃないし」
「他人でしょうが」
 人々が恐れる葵の冷視線にひるむことなく、亮はにこりと笑みを返す。
「本人だろ。俺だってせんちゃんになったりするんだぜ? 二人で二つの心と体を共有してるんだから」
「み、妙な言い方しないでくださいっ」
「事実じゃん」
「…………」
 仙子も頬を引きつらせた。
「……案外図々しいですね」
「いいじゃん」
 亮はニコニコと悪意なく微笑む。
 どちらかといえば葵のほうがひるんでいる。
 それを気にすることもなく、亮は仙子にかわいい顔を向けてきた。
「そだ。今日、帰りにちょっと寄ってってみようよ」
「え、公園に?」
「もしかしたら、あの公園がきっかけかもしれないし。タブーを犯すと呪われるとかさ」
「……そうかしら」
 さらりと妙なことを言った亮を不審な目で見てしまう。
 葵も怪訝な顔をしていた。
「事件の検証ってのは原初からやるのが筋じゃん」
 当然のように言われると、そんな気がしないでもない。
 仙子も同意しうなずいた。とりあえず現場を見ておいても害はない。
 そういえば、深緑公園と言ったときの紅の反応も少々気になる。あまりいい印象がないと言っていたことを思い出した。
「僕も行きましょうか?」
「葵さんが来ると目立つからいいわ」
「そうですか?」
「そうそう」
 心配顔で見られたが断っておく。
 亮もうなずき、ごそごそとポケットをあさって携帯電話を取り出した。
「ケータイ教えて? なんかあったとき連絡とれないと不便じゃん」
「まあ…、そうね」
 葵に軽くにらまれたが、確かに亮が言うのももっともである。不満げながらも文句は言わなかった。
「えーと――はい、コレよ」
 携帯番号を見せると、亮はピピピと手早く登録する。
「せ…ん…ち…ゃ…ん――と」
「…………」
 ――――キンコーンカンコーン
 お互いの番号を交換し終えたとき、4時間目終了のチャイムがなった。
「あ、4時間目サボっちゃったなー」
「いいじゃない別に」
 まったく悪びれる様子のない口調である。
「せんちゃん、イメージと違って不真面目……」
「……悪かったわね」
「じゃ、俺、とりあえず教室戻る」
 すっきりしたような顔でドアに向かい、仙子に笑顔を向けた。
「せんちゃん、放課後深緑公園の北口で待ち合わせな?」
「あ、うん。北口ね?」
「じゃ、またね、葵さん」
 葵にも手を振って見せ、あわただしい足取りで保健室を出ていった。昼休みを無駄にしたくないらしい。
 残された二人はやれやれとため息をついた。
「まったく……」
 葵は特に不満げである。
「人懐こい性格なのよ」
「なれなれしい……」
 とりあえずかばっておいたが、葵はフンと顔をそらした。
 それにしてもと、仙子は腕を組んで椅子にもたれかかった。
「あの夢……、妙にリアルすぎると思ってたらやっぱり夢じゃなかったのね。実際に見てたんだわ、川名くんになって……」
 深緑公園の光景が脳裏によみがえる。
 想像力がたくましいのだとしても、遊具の色やベンチの位置までまったく正確に当てるのは不可能だ。
 それでもあたっていたのは、夢だと思っていたものが実際は亮の目で見ていたものだからなのだ。
 人格の交代を現実に経験して確認したのだから疑いようもない。
「…………」
 考え込む仙子を葵がじっと見つめていた。
「化学のプリントを見た時も…、あ……、今朝のあの部屋もか……」
 それも亮に確認しておくべきだった。
 あの白いカーテンと薄緑色の布団が一致していれば、公共の場である深緑公園以上に確かな証拠である。
「…………」
「ん? どうしたの、葵さん?」
 ようやく視線を感じて顔をあげる。
「いえ……」
「?」
 葵はなにか言いたそうな疑わしいような目で仙子を見た。
 実際にあの状態を見ても信じられないのだろうかと首をかしげるが、葵が疑っているのは仙子のことではなく別のことだった。
 尭己が妙に仙子の夢に興味を示していたことが気になる。しかし、仙子には言えない。
 なんでもないと首を振る。
「じゃ、私も教室戻るわね、葵さん」
「ええ。気をつけてくださいよ?」
「うーん。気をつけろって言われても、どうしようもないのよね」
 意識的に交代できるものでもないし、どうにもならないと言いたげに肩をすくめた。
「それもありますけど色々と……」
「葵さんもそんなに心配することないわよ。ただちょっと入れ替わったりするだけだもん」
「だけって……。相当大変なことですよ?」
「もう入れ替わらないかもしれないし、お互いが誰だかも分かってるからなんとかなるわよ」
「そうですか? だといいんですけど」
「大丈夫、大丈夫」
 不安げな葵に対し、仙子はあっさりしたものである。
 何もかも解決したような顔でドアを開けた。
 そして、そこに人が立っているのが目に入り、ギクリとして頬が引きつる。
「…………」
 女子生徒だった。茶髪である。目元がきつい美女で、執念深そうな蛇系の性格っぽい感じだ。
 仙子に向かってジトリと陰湿な種類の視線を向けている。
 どうやら葵との親しげなやりとりを聞かれてしまったようである。
「…………」
 このまま何事もなかったようにスタスタ去ってしまおうと思ったが、
「どうしました、せんちゃ…ん?」
 葵が身動きしかねている仙子に気づいて近づいて来てしまった。
 廊下に目線をやり、はたと女子生徒に視線を留める。
 葵の顔を見て、茶髪の美女は仙子をにらむのをやめ少しだけうろたえたような顔になった。眉をひそめて仙子と葵を交互に見やる。
「……なんですか? 保健室になにか?」
 葵の口調はいつものように冷たい。
「……いいえ……失礼します……」
 それだけ言って、仙子に一瞥をくれると歩き去っていく。
「…………フン」
「フンじゃないわよ葵さん。逆恨み買っちゃったじゃないの」
 仙子に責めるような目を向けられたが、葵は反省のかけらもなくつんとそっぽを向いた。
「用もないのに保健室にきたがる方がおかしいんです」
「……穏便な高校生活が送れなくなったらどうしてくれるのよ」
 すでに他人と人格交代する時点で穏便とは言いがたいが、仙子はぷんとふくれっつらで葵をにらんだ。



 教室では半数の生徒たちが弁当を広げていた。
 食堂で昼食をとるものも多いが、弁当持参の者も多い。教室で食べるのが主流である。
 宮野と石巻も弁当を持ってきている。いつものように後ろのほうの席で包みを広げていた。窓際で日当たりのいい大志の席である。
 亮が教室に戻ってきたのに即座に気づき声をかけてきた。
「リョウリョウ、大丈夫か〜?」
「よーよー、どーした? 突然保健室に行くって飛び出してったからびっくりしたぜ?」
「え……――あ、うん」
 自分の席へ弁当をとりに行きながらあいまいにうなずく。
 そのときの亮は保健室で仙子になっていたから、その行動は仙子の意志である。
 急に人格が交代し、動揺しつつ慌てて本物の自分がいるはずの保健室へ行ったのだろう。
 それにしても、鏡を見ようとして女子トイレなどに駆け込まれなくて助かった。亮の格好でそんなことをされては大騒動である。
 それを考えて少しホッとしつつ、弁当の包みを持って二人のいる席へ向かった。
「ん? あれ? 大志は?」
 いるはずの無愛想な顔がない。訊くと、石巻が卵サンドにぱくつきながらそっけなく答える。
「いつものメニュー買いに行った」
「またカレーパンとジャムパンかよ――って、え……自分で?」
 苦笑してから、思わず目を見開く。
 すでに弁当の半分を空にした宮野が、意味深に含み笑いした。
「だってな〜、ほらほら、リョウリョウが保健室なんかいくからさ〜」
「迎えに行きたかったんじゃねーのー?」
 石巻も宮野に合わせてにやけている。
「いつもなら宮野買ってこ〜いって命令すんのにな〜」
「おつり請求されないから喜んで行くんじゃん、お前」
「大志さまったら太っ腹だも〜ん」
 亮があきらめたような苦笑で手近の椅子に腰かけると、石巻がチラリと亮の顔を見る。
「それより、リョウリョウ、もう体調はいいのか?」
「そだそだ。弁当食えるのか?」
 宮野は狙うような目で亮の弁当を見て訊ねた。
「あ…………――え、なに?」
 一瞬遠い目になった亮が、突然無表情な顔をしてきょろきょろとあたりを見回した。
「……? 弁当食えるかって訊いたんだよ」
 急な変化に首をかしげる石巻を眉をひそめてじっと見て、亮は自分の手元にある弁当の包みを口をゆがめてにらんだ。
 憂鬱そうにため息をつき、ぐいっと自分から遠ざけるようにちょっと押す。
「……あんまり食欲ないわ。食べていいわよ」
「――へ?」
「マジ? わーい、いただきまーす」
「おいコラ、ミヤ」
 うれしそうに亮の弁当に飛びつく宮野を石巻が制する。亮の異変を少しも気にしない宮野にさすがにあきれた。
 唐突な表情の豹変と、怠惰な口調の女言葉である。少しは変に思ってほしいが、宮野はいたずらっぽい地顔で石巻の制止を退ける。
「なんだよ、マキマキ〜。ちゃんとお前にも分けてやるってば」
「じゃなくてっ」
 淡い黄緑の包みをほどいている宮野に注意を促すが、全然亮の変化に気づかない。目の前の弁当に釘付けで、的外れな返事である。
 当てにならない宮野は放っておくことにし、石巻は亮に目を戻す。窺うように顔をのぞきこんだ。
「――あっ! なにしてるんだ、宮野っ」
「あっ、なにすんだよ、くれたくせに〜っ」
「誰がやった、誰がっ」
 幸せそうな顔で亮の弁当の蓋を開けた宮野から、亮は慌てて弁当を奪い返した。
 守るように弁当をかばい、宮野をにらんで頬を膨らませる。
 宮野は悲しげに亮の弁当を凝視する。
「食欲ないからいらないって言ったじゃないか〜。男に二言はないだろ〜っ」
「なにを勝手な捏造してんだよ。油断も隙もねーなっ」
「……なんなんだ?」
 石巻は目の前で突然手品を見せられたようにパチクリとまばたきした。
 怪訝な顔で亮に目をやり、眉間にしわを寄せる。
「え……」
 亮ははっとした表情で石巻を見た。
 無意識にうっかり秘密を漏らしてしまったような顔をする。
 入れ替わった仙子が勝手なことを言ったらしいと気づいたのだが、石巻には説明できないことである。
 お互いに反応をうかがう。
「あ、大志だ」
 場の雰囲気に頓着しない宮野が、前の入り口から入ってきた長身を見つけた。
「ん? 戻ってきたのか、亮」
 亮を見つけて無愛想に言う。
 寄ってきてそばの椅子に座ると、変な顔をしている石巻に気づく。
 亮も少しばかり気まずいような顔をしている。
「? どーした?」
「それがさー、大志。リョウリョウが変なんだよ」
「な、何だよ変だなんて失礼な」
 困惑して難しい顔をした石巻と焦ったような亮を見比べ、いつもの不機嫌に見える顔でフンと鼻息を吐いた。
「…………。亮が変なのはいつもだろ? 食おうぜ、メシ」
 買ってきたカレーパンとジャムパンを机の上に置き、紙パックの牛乳を開けながら食事を促した。
 亮は内心安堵しつつ、わざとらしくふくれっつらを作って大志に向ける。
「変とは失礼な」
「変変」
 淡々とした口調でからかいつつ、大志はカレーパンの袋を破る。
 石巻ははぐらかされたことで多少不満げにしたが、黙って食事を再開した。
 弁当の蓋を開けた亮の横で、宮野が重いため息をつき恨みがましい目を向けてくる。
「リョウリョウの弁当……。くれるって言ったのに……」
 宮野はすでに自分の弁当を食べ終えてしまっているのである。人が食べているのを見るのがつらいらしい。
 亮は困った顔で肩をすくめた。
 エビフライのひとつくらいやるしかないかと思ったが、その前に大志がカレーパンを食べながらジャムパンを宮野に差し出す。
「ほら、俺のジャムパンやるからおとなしく食え」
「え! いいの?」
 大志からジャムパンを受け取り、宮野の目が輝く。
「その代わりメロンパンといちご牛乳買ってこい」
「……何だよ〜。行くけどさ〜」
 付け加えて言われた指令に口を尖らせながらもしぶしぶ椅子を立つ素振りを見せるが、顔はうれしそうに千円札を受け取っている。
「俺も行く〜」
 ちょうど食べ終えて石巻も立ち上がった。
 亮がニッと笑んでいってらっしゃいと手を振る。ついでに頼み事もする。
「俺にウーロン茶買ってきて。大志のおごりで」
「え〜、分け前減るじゃん〜」
「大志、宮野があんなこと言ってる〜」
「宮野」
 亮にねだられ、大志がジロリと宮野を見やる。
「う……。分かりました……」
 なんだかんだ言っても大志が強いのである。
 残念そうな足取りで行こうとする宮野の肩を叩き、石巻がニヤリと首を振り向ける。
「しかたねーよ、ミヤ。やつらはラブラブだから」
 宮野にもニヤリとされ、大志が動揺して顔をしかめた。
「…誰が…っ」
「そっちがそうならこっちはこっちでいちゃつこうぜ、マキマキ」
「よしっ、手つないで行くぜっ」
「おい、コラ、テメーらっ」
 楽しそうに手をつなぐ二人に襲いかかりそうな勢いで大志が立ち上がる。
 宮野が石巻を引っ張り、逃げる態勢を作ってから揶揄するような顔を見せた。
「おーこった、怒った。タイタイが怒った〜」
「わ〜、逃げろ〜」
「この…っ」
 そのまま教室から出ていった二人のあとを追おうとした大志の腕をつかまえ、亮はなだめる顔で苦笑する。
「まあまあ大志、ムキになるなよ。逆効果だぞ」
「…………」
 大志はムスッとむくれたまま椅子に座りなおすと、苦々しげに口を歪めて鼻息を吐く。
「弁当食おうぜ。俺のエビフライやるから落ちつけ」
「……別に取り乱してない」
 箸で差し出されたエビフライからフンと顔をそむける。
 宮野の口に入るかもしれなかったものである。惜しくはないが、いらないのなら別にかまわない。
「あっそ。じゃ、やらねー」
「…………」
「あっ!」
 油断したすきに箸ごと手をつかまれた。
 唖然とする。
 亮のエビフライは大志の口に入ってしまった。尻尾が口の端から出ていたが、すぐに中に入っていく。
「大志〜っ」
 手を振り解いて抗議の声をあげるが、むしゃむしゃと咀嚼されゴクリと大志の喉を通る。
 大志は無表情な顔のまま、くるりと亮に顔を向けると口を開けて舌を出した。すでにエビのかけらもない。
「いらないんだろーが、お前はっ」
「そんなこと言ってねー」
 亮が悔しがるのを楽しんでいるようである。
「くそ〜っ」
「フン。体調の悪いときに油もんはよくないぞ」
「誰が体調悪いんだよ」
 思わず言って、大志に変な顔をされた。
「……保健室行ってただろ?」
「え、あ、え〜とそれは……体に異変が起きたというか……」
 たじたじと作り笑いで頬をかく。
「まあ、別にたいしたことじゃないから」
「……そうか?」
 狼狽した亮をうかがうように見つめ、不審げに眉をひそめた。
「心配するな」
「別に…」
「さー、食おーっと。いっただっきまーす」
「…………」
 大志は怪訝に思いつつ首をかしげ、わざとらしくはぐらかした亮を見つめた。ごまかしてはいるが、石巻の言うように妙な態度である。
 亮は、牛乳を飲みながら向けてくる大志のうかがうような視線に気づかない振りをしつつ、プチトマトを口に入れた。
 もう少し元に戻るのが遅れていれば、宮野に昼食をすべて食べられていたかもしれない。
 意識が交代したときに変なことを言うのはやめるように仙子に注意しておく必要がある。宮野はともかく、石巻と大志の前では気を付けてもらいたい。
 チラリと大志をうかがうと、無言で見つめ返してきた。
 気にしていない風を装ってはいるが、どうもなにか感づいているような気もする。
 仙子と人格が交代するなどと大志には絶対に言えないなと思いつつ目をそらす。
 とにかく、早いとこ原因を突き止めてなんとかしようと、亮は軽く考えていた。



 誰もいない屋上に座り、尭己は一人フェンスに寄りかかってため息をついた。
 両手で金髪をかきあげるように頭を抱えると、目を閉じてうなる。さっきからずっとこの調子で考え込んでいる。
 午後の授業も終わりそうな時間である。
 春の陽射しがぽかぽかと降り注いでいるが、高所の風はまだ冷たい。
 だらしなく着崩してはだけているので、体はずいぶん冷えている。
 しかし、意識がそれに向けられることはなく、寒いとも感じていなかった。
 しばらくして、尭己は深く考え込む顔をやめた。しかたなそうに口をゆがめる。
「…………」
 ポケットから携帯電話を取り出す。
 しぶしぶといった表情で電話帳から目的の名前を選択する。
 少し迷いながらも、通話ボタンを押した。
 呼び出し音を聞きながら、またため息をこぼした。



  放課後になり、沼本は化学室から職員室までの廊下を重い荷物を抱えて歩いていた。
 6時間目の授業で実験ノートを回収したのだが、誰か生徒のひとりに持たせればよかったといまさら思いつく。
 みんな最後の授業となると、そそくさと急いで帰っていってしまうのでいつのまにか沼本ひとりが残されたのだ。
 間抜けな自分に少しあきれながらため息をつく。
「重いなー。誰か生徒通りかからないかなー」
 通りがかりの生徒をつかまえて持たせようと怠けたことを思っているところへ、都合よく足音が近づいてきた。
 パタパタと廊下を走っている二人分の足音である。
「お、誰か来たか。ちょうどいい。おい、ちょっと……」
「うわ、沼本先生だっ」
「また重そうな資料もってるぞ」
「げ、宮野と石巻か……」
 現れた二人組を見て顔をしかめた。
 二人のほうも、ごまかし笑いを浮かべている。
「な、なんすか?」
「うーん……。お前にはこの前ひどい目にあわされたからなー……」
 数日前書類運びを手伝わせたとき、宮野が廊下に派手に紙を散乱させた光景が脳裏によみがえってくる。
 かなり大量の書類だったのだ。思い出してもうんざりする。
 そのとき、生活態度に落ち着きのない者にものを頼んでも、余計な面倒が増えるだけだと悟ったのである。
「また頼もうと思ったけどやめとこう」
 あきらめた顔で沼本がそういうと、二人は顔を見合わせてうなずきあった。
 宮野がうかがうような視線を向けてくる。
「用ないっすね?」
「ないない。行ってよし」
 追い払うように軽く手を振ると宮野が嬉々として得意げになり、石巻もつられて嬉しそうな顔になった。
「やったっ。マキマキ、行くぞっ」
「おうっ。作戦成功だったな、ミヤ」
「だはははは、誉めるな、誉めるな」
 石巻にたたえられて照れながら、早足で沼本の前から去ってゆく。
「先生さいなら〜」
「さいなら〜」
 楽しげに角を曲がって姿を消した。
 沼本は重い荷物を持ったままぽつんと廊下に残された。
「……なんなんだあいつらは……。小学生みたいだな……」
 首を竦めて、しかたなくひとりで職員室を目指す。
 そこへ、角を曲がってくる生徒がひとり目に入った。
「お、あれは川名じゃないか」
 沼本のお気に入りの優等生である。沼本に限らず、どの教師からもウケがいい。
「ちょうどいい。おーい、川名亮」
 亮は難しい顔で考え事をしながら歩いていたが、沼本の呼びかけに反応して顔をあげた。
「え、うわ……っ!」
 ずでーんと派手に尻餅をついた。
「…………おいおい」
「いたたたた……」
「だ、大丈夫か?」
 なにもない廊下で、普通とは違った転び方だった。
 前につんのめるのならまだ分かるが、がくんと後ろへ手をつくような感じである。
 沼本は変に思って首をかしげた。
「今思いっきり変なコケかたしなかったか? 階段ですべったみたいな……」
「せんちゃんめ……」
「は?」
「いやいや、なんでも……」
 ぶすっとむくれて小さく呟いたが、沼本に聞き返されてごまかすように首を振った。
 この調子だと亮も役に立ちそうにない。
 また宮野のときのように手間が増えるのは遠慮したい。
「うーん、お前に頼もうと思ったけどやっぱりいいわ。気をつけろよ?」
「はーい」
 亮が立ち上がるのを見届けると、声をかけてその場を去った。
 いくらデキがよくても注意散漫になることくらいあるのだろうと思いながら、ノートの束を抱えなおして角を曲がる。
「ぃたたたた……」
 階段の下で、尻餅をついて痛そうに腰をさすっている女子生徒を発見した。
「…………?」
 足を滑らせたような格好である。
 さっきの亮と同じような体勢だった。
 既視感である。さっき見たばかりの光景を再現したような感じだ。
 不思議に思って首をかしげる。
「どうした、芹沢?」
「ちょっとすべって……」
 不機嫌に階段をにらむ。いつもながら無愛想な顔である。
「大丈夫か?」
「ええ、はい……」
「そこで川名も転んでたし……」
「あ、そうですか…」
「気をつけろよ?」
「はーい…」
 不思議な感じがしたが、仙子のことは少し苦手である。
 首をかしげながらも、沼本は追求することもなく階段を上っていった。
「せんちゃ〜ん……」
 沼本が行ってしまったのを確認したように、ぬっと角から亮が顔を出す。
 責めるような目で仙子を見た。
「……なんであんたまで転ぶのよ?」
「知らね。つられたみたい。離れていても一心同体なんじゃないか?」
 おもしろがる口調で言うと、仙子は迷惑そうな顔をした。
 害をこうむったのは亮のほうなのでにらまないでほしいものである。
 ふと見ると、仙子は右手に携帯電話を持っていた。
「電話しながら歩いてるから転ぶんじゃん」
 ふくれっつらを作ると、仙子は困ったような顔になった。
「だって…、さっきから高岡くんと連絡取ろうとしてるんだけど、ケータイつながらないのよ、ずっと話中で」
「あれ? 尭己、学校来てなかった?」
「来たけど、すぐ帰ったのよ。葵さんが怒らせたもんだから……」
「え、尭己を? あいつ、怒ることあんの?」
 普段の尭己を知っているので、亮が驚くのも無理はない。
 本来尭己はヘラヘラしてなんでも受け流すような性格なのである。
 仙子はいらついた尭己の顔を思い出して口をゆがめた。葵のせいである。
「怒ったというか、噂を気にしてるというか……」
「あ、その噂聞きたい。俺、知らない」
「私も知らないわ」
 好奇心を持って訊かれたが、仙子も聞きそびれている。首を振ると、亮が不満げに眉をひそめた。
「だって、尭己と親しいんだろ?」
「川名くんほどじゃないわ」
「俺? そんなに親しくもないけど?」
 そっけなくそう答えた亮をじっと見つめる。本気で答えたらしい。
「…………かわいそうに」
「え?」
「いえ、別に…」
 あらぬ方を向いてコホンと軽く咳払いする。
「あの人、私の夢の話に興味持ってたしちょっと相談してみようかと思って」
「ふーん?」
「何回電話してもずっと話し中だから、それでうっかり足を踏み外して……」
 なぜそれが亮に伝染したのか分からないが、仙子は少しだけすまなそうな顔をした。
 亮はやれやれと肩をすくめると、わざとらしくため息をついた。
「お前一人の体じゃないんだから気をつけてほしーよ」
「…誤解を招くような言い方はやめなさい」
 頬をひきつらせてしまうが、亮は楽しげににこりと微笑んだ。
「だって実際俺たち一心同体じゃん」
「違います」
 パタパタと服についたほこりを払いながら、フンと顔をそらして強く否定する。
「…………?」
 顔をあげ、思わず不審げに眉をゆがめる。
 亮が仙子と同じ姿勢で服をはらっていた。
「――なんであんたまではたいてんの?」
「え?」
 亮も顔をあげ、仙子を見る。
 そして自分をしている行動に気づいてパチクリとまばたきした。
「あれ…?」
 手のひらを見て眉をひそめた。
 無意識に仙子の真似をしていたのである。
 というより、仙子の意思が乗り移った同調行為である。まったくの意識外だった。
 自分が動いていることさえ感じていなかったほどだ。
 深刻な表情で、仙子はさっと右手を上げた。すると亮の右手も自然に上がった。
「うわ、つられて手が勝手に……っ」
 亮が慌てて、パシッと左手で右手を押さえた。
 仙子がゴクリと息を呑む。
「同調してる……?」
「こ、怖いかも……」
 仙子と亮は難解な顔で目を見交わした。
「……ちょっとヤバいんじゃない?」
「気を抜くとヤバイかも…」
 恐ろしいものを見るように自らの右手を見つめ、心配そうに眉をひそめた。
「お互いに自覚したからかな?」
 戸惑った顔を仙子に向ける。
 仙子は首をひねり、腕を組んでうなった。原因が分かるはずもない。
「もしかしてだんだん同調が深くなってるとか?」
 考えて見れば、人格交代の時間も長くなってきているかもしれない。
 はじめは10秒ほどだったのが、さっきはかなり長く交代していた。
 それを考え、亮も顔を引きつらせる。
「最終的に意識が同化したりして……」
「ちょっと問題よね」
「ちょっとどころじゃないよ……」
 悲観的にため息をつく。
 普通に日常生活が送れなくなるかもしれない可能性が出てきたのだ。
 仙子は案外軽く考えているような態度だが、どうやって解決すればいいのか見当もつかない。
 誰にも言えないような類のことである。信じてもらうのもやっとだろう。
「とにかく深緑公園に行ってみましょう」
「うん。俺、カバンとってくるから先に行ってて」
「じゃ、北口の方うろうろしてるわ」
「分かった、すぐ行く」
 そう言って二人で階下へ降り、二手に別れた。


 曲がり角の横でその様子を見ていた者たちがいた。
 女子生徒3名である。どれも美形だが、不満げに口を歪めている。
「…………」
 目を見交わすと、静かにその場を後にした。


 階段の上で、宮野と石巻が息をひそめていた。
 二人と3人が行ってしまうと、お互いにうなずきあう。
「見たか、マキマキ」
「見たぞ、ミヤ」
 犯行現場を目撃した探偵のようである。
 亮に先に帰れと言われたが、黙っておとなしく従う宮野ではなかった。
 密かに亮を探っていたのだ。そして、その光景を目撃した。
「リョウリョウが芹沢のお嬢さまと……」
 好奇心いっぱいの目を輝かせると、石巻にニヤリと笑みを向ける。
 ガシッと握りこぶしを作った。
「大志に報告しなくてはっ」
「よしっ」
 使命感に燃え、二人は大志を待たせてある秘密の場所へ走って行った。



 仙子は一足先に深緑公園につき、北口の付近をぷらぷら歩いていた。
 目印になる大きな木の下へ行くと、寄りかかってため息をつく。一番最初に人格交代があった場所だ。
 そこから、ぼんやりとあたりを眺めた。
 茂った木の間から入り込んでくる木漏れ日はもう茜色である。右手に見えるジャングルジムがいっそう赤く見える。
 夕日の中を広大な敷地を通学路にした小学生が横切っていたり、ベンチに老人が座っていたりする。
 犬の散歩をする人の姿もあり、雰囲気はほのぼのしている。
「…………」
 何の因果で亮と仙子が入れ替わることになったのかさっぱり分からない。
 仙子はカバンを足元に置き、ひとりで首を傾げた。
 この景色を10年前に見た覚えはある。それ以来ここには来ていないと思う。
 それを唐突に夢に見たこと自体がおかしなことだったのだが、まさか他人と入れ替わってるとは想像もつかなかった。
 それにしても、幼いころの記憶はどれもあいまいで不鮮明なのに、この場所から見るこの光景ははっきりと脳裏に浮かぶのは不思議である。
 しかし、ここで遊んだ思い出は出てこない。

――――ねえ、待ってよ!

「え?」
 どこかから子供の声が聞こえて、仙子はきょろきょろとあたりを探した。
 すでに下校途中の小学生の姿もなく、声の主が見つからない。
「……誰もいないわよね?」
 至近距離で聞こえたような気がしたが、気のせいだろうか。
 木の後ろをのぞきこむが、やはり人はいない。
「ん〜……?」
 首をひねりながら元の姿勢に戻り、夕日のまぶしさに目を細めた。
「…………え、あれ?」
 空が広く見える。というより、木々が小さくなっていた。
 さっきまで見えなかった沈みかけの太陽が、さえぎるものがなくなったせいで目に入る。
「なにこれ?」
 また亮と意識が交換したのかと思ったが、仙子の立っている位置はさっきとまったく変わりない。深緑公園の北口だ。ただ周り中に生えている木が細く小さくなっているだけである。
 ふと右のほうに視線を向けると、さっきまで赤かったジャングルジムが突如として青くなっていた。
「……ってことは……」
 ありえない情景に、思わず立ち尽くして頬を引きつらせた。
 10年前の光景である。
 仙子が覚えている最古の記憶だ。
 今度こそ白昼夢だ。

――――どうしたの?

「え?」
 振り向くと、今度は子供がいた。
 シニカルな笑みを口元に浮かべ、仙子を見ている。
「…………」
 誰だか思い出す前に、急に視界がかげった。
 夕日が木々にさえぎられている。
 一気にざわざわと10年分くらい成長した感じだ。子供の姿も消えている。
 元に戻ったらしいと分かり、仙子は安堵のため息をついた。
「ちょっと聞いてるの?」
 いらついた女の声が横手から聞こえ、眉をひそめて顔を向ける。
「……なに?」
 仙子と同じ制服を着た女子生徒が3名、どれも敵意をあらわにして仙子をにらんでいた。
 髪の長い和風美人と、小柄なショートカットのかわいい少女、そして、茶髪で目元のきつい執念深そうな美女である。
 茶髪が先頭に立ち、憎々しげに仙子に顔を向けている。
「……話しがあるんだけど」
 穏便でない雰囲気だ。
「私になにか用?」
「用って……ねえ?」
 皮肉っぽく口を歪めた和風美女に促され、茶髪はフンと鼻で笑った。
「抗議しにきたに決まってるでしょ、芹沢仙子さん?」
「ふーん、抗議? 3人で寄ってたかって抗議なんて……脅迫でしょ?」
 迷惑そうに眉をひそめ、キリッと茶髪をにらんだ。
「なんの目的? お金なら出さないわよ?」
「お金? バカにしないでもらいたいわ」
 3人ともムッとして不機嫌に唇を噛む。
 気位が高そうだったのでわざとそこをついたのだが、真剣に怒ってしまったようである。
「じゃあなによ? とりあえず名乗ったら? どうせ調べれば分かることだけど」
 仙子が薄く笑って強気に出ると、後ろの二人は頬をひきつらせた。
「べ、別にあんたがおとなしく手を引けば何もしないつもりよ」
「そ、そーよ、そーよ」
 茶髪の肩越しに文句を言ってくる。
「私なんて名前覚えてもらうのに1年かかったのよ?」
「横取りはやめろってことよ」
「だいたい葵さんに対してなれなれしいのよ、何様のつもりか知らないけど」
「…………」
 仙子はそこでようやくピンと来た。
 3人とも保健室で会った顔である。どこかで見たような気がしたはずである。
 葵に追い返されたのを仙子のせいだと思い込んだ逆恨みだ。
「なんだ、そんなことか……」
 あきれたようにため息をついてしまう。
 茶髪の女とは数時間前に顔を合わせているのだから、もう少し早く思い出してもいいくらいだが、変な白昼夢を見た直後で当然ながらそっちのほうが気がかりだったのだ。
 しかし3人にとっては重大なことである。仙子のため息に軽んじられたと感じ、カチンと頭にきたらしい。
 むかついて顔をしかめると、すごむような目つきで近づいてきた。
「芹沢の娘だかなんだか知らないけどね、いい気になってんじゃないわよ?」
「葵さんだけじゃなく、高岡くんや川名くんにまで……」
「そうよ、そうよ」
 茶髪に続いてショートカットが仙子に非難の目を向けると、和風美女も同意した。
 仙子はパチクリとまばたきした。葵や亮はともかく、尭己の名前が出たことに驚いた。
 素材は極上だがだらしなくて、金髪にピアスの長身はド迫力で恐れられる存在なのだ。その上変な噂まであるらしい。
 葵や亮と同列に並ぶのが意外である。
 しかし今はどうでもいい。
 右手を頭に当ててやれやれと首を振る。
「言いがかりはよしてくれない?」
 口をゆがめてにらむと、3人とも一気に頭に血を上らせる。
「なによ、一人占めして……」
 歯噛みして悔しがる後ろの二人を手で制し、茶髪が皮肉っぽく口だけ笑んだ。
 冷たい目で仙子を見やる。
「強欲な女ね。口で言っても分からないならしかたないわ」
 いきなりポケットからカッターを出した。
「…………」
 仙子は内心焦ったが、無表情で茶髪の美女を一瞥した。
 後ろの二人は刃物にひるんで動揺している。逃げ腰なのが顔に出ているのだが、こうなると後にはひけないらしい。
 仙子は心の中で、早く亮がくることを願った。もう来てもいいはずである。
 カバンを取りにいっただけなのにずいぶん遅い。
 手を伸ばせば届くような至近距離で、仙子はカッターとにらみ合っていた。



 そんな仙子のピンチも知らず、亮は深緑公園の南口を自転車を降りてうろうろしていた。
 仙子を長く待たせているのは分かっているが、このまま北口に迎えない理由がある。
「なんなんだよ、もー」
 不機嫌にふくれっつらを作って後ろを振り返った。
 ニヤニヤと笑みを浮かべた長身の金髪があとをついてきていた。
「だーかーらー、せっかく大志がいないんだしたまには一緒に帰ったっていいじゃん。偶然にも道でばったり出会ったわけだし?」
「偶然って、こんな放課後に学校の近くで会ったってなんの不思議もないだろ?」
「いや、いや」
 教室に大志たちの荷物がなかったので、帰る途中で遭遇しないようにといつもと違う道を選んだのだが、それがまずかったようだ。
 亮が急いで自転車で学校を出たところで、尭己にばったりと出くわしてしまったのだ。その顔を見て悪い予感はしたが、やはりこうなってしまった。
「だいたいせ…りざわさんが尭己に連絡取れないとか言ってたのに、どーしてこんなとこうろちょろしてるんだよ」
 思わずせんちゃんと言いそうになってしまい慌ててごまかすが、尭己には気づかれなかった。
「え、芹沢が? なんだろ?」
 きょとんとし、首をかしげる。
「まあいいや、あとで連絡しとけば。亮くんのお部屋を拝見してからで」
 結局結論はそこにたどり着くらしい。亮はあきれた視線を尭己に向けた。
「……一人で帰れってば。お前あっちの方だろ?」
 言って顔で右方向を指し、次に左方向を向く。
「俺はこっち。だからここで別々。はいさよなら」
「いーじゃん。遠回りしてくぜ、俺」
「だー、迷惑なんだってば、今日は特に」
「なんで?」
「なんでだっていいだろ? 尭己に関係ないじゃん」
「冷たいねー、亮くんは。せっかく大志がいないのに。それともなに? 大志を断っておいて俺と一緒ってのがまずい?」
「なんだ、それ。大志も関係ない。俺の事情なんだってば、分からんやつだなー」
 どう言っても一人で帰ってくれそうにない。
 こうしている間仙子を待たせてしまっているのが気にかかる。たぶん怒っているだろう仙子を想像し、困ってため息をつく。
 亮は自転車で尭己は徒歩である。猛スピードでそのへんをでたらめに走り回って撒いてしまおうかと考えたときだった。
「――っつ……!」
 急に右手の肘のあたりに痛みが走った。カッターや紙で切ったときのような感じである。
「どうした、亮くん?」
「――……」
 自転車をゆっくり地面に倒すと、服の上から左手で押さえて顔をしかめる。
 どこにぶつけたわけでもなく、過重をかけたわけでもない。自転車を支えて歩いていただけである。
 しかも切り傷の痛みである。
 とっさに思い浮かんだのは仙子の顔だった。
「せんちゃん……?」
 廊下で転んだ時のことを思い出した。仙子が階段を踏み外し、それが伝染して離れた場所にいた亮までなにもない廊下でこけた。
「…………」
 尭己が無言で亮の肘を持ち上げる。
 亮の左手をどかせてじっと見たあと、制服のボタンに手をかけた。
「ぅわっ、なにすんだよっ」
「はい、ブレザー脱いで」
 襟を持って胸の前を開かれ、亮は思わず抵抗してしまう。
「ちょ……、いいよ、なんでもないから…っ」
 亮が自分の身をかばうように急いで手を引っ込めると、尭己は従わせるような目で軽くにらんだ。
「血が出てるじゃん」
「え? わわわっ」
 見ると確かにブレザーの外に血のしみのようなものがついていた。
 亮が動揺したすきに、右袖が抜かれる。
 白いワイシャツの肘に赤々と血がにじんでいた。
 亮本人が一番驚いた顔をしている。
 尭己は冷静に肘を観察し、きっちり留められた袖のボタンをはずした。
「はい、袖まくって」
 亮の手首を掴んで袖をまくりあげる。小指側の肘付近に切り傷があった。思ったよりも血が出ている。
 まじまじと見て、不思議なことに気づく。
 腕が切れているのに、服が切れていなかった。傷だけが皮膚に浮かび上がってきたかのようである。
「…………」
「いててててて……」
 亮が傷を見て痛そうに顔をしかめているのをじっと見つめ、尭己は密かにため息をついた。



「…………っ」
 仙子が右腕を押さえ眉間にしわを寄せる。
「――――」
 女子3名が、唖然とした顔で息を留めていた。
 仙子が不快げに口を結んでじろりとにらむと、焦ったように顔を見合わせる。
「ちょ、ちょっと脅すだけって言ったじゃない」
「だ、だって、ホントに切れちゃったんだもん…」
 おろおろする3人に仙子はあきれた視線を送る。
 ムスッとして肘の付近を観察する。
 切れ味のいいカッターだったらしく、制服にぱっかりと切れた穴が開いてしまっていた。
 意外と長くすっぱり切れて血が滴っていた。傷は浅いが、押さえている左手の指の間に血がにじむほどである。
 3人とも流血に軽く目眩を起こしているのか、くらくらした表情で頬を引きつらせていた。
「切った方がびっくりしてないでよ……」
 うつむいてはぁと重くため息をついた。
「なんだ、危ねーな」
 男の声が聞こえて顔をあげる。
 茶髪が刃の出たカッターを持ったままびくりと肩をすくませた。
「あっ……」
 女子たちの後ろに長身の無愛想な顔が立っていた。
 全員が仙子の傷に気をとられていて、誰も大志が近づいてきていたことに気づいていなかった。後ろを見上げて呆然とした。
「なにやってんだ、こんなもん出して物騒な」
「う……」
 ひょいと刃物をとられ、茶髪の美女は身動きできずに口元をひきつらせる。
 青い顔で大志を凝視した。
 大志はいつも怒っているような顔だが、今は更にムスッとしている。責めるような目で茶髪を見る。
「な、なによ、その女が悪いのよ」
「なんで私のせいなのよ」
「うるさい…っ」
 いきなり仙子が悪者にされ、反論するとキッとにらまれた。
 3人とも心の中は相当動揺しているらしく、どうすることもしないでただ立ち尽くしていた。
 大志は普段に増して不機嫌な目で3人を冷たくにらむ。
「なんだか知らねーけど、お嬢様方が慣れないことすんじゃねーよ」
「あ、あんたには関係ないでしょ?」
「そうもいかねーじゃん」
 痛みに顔をしかめている仙子をちらりと見て、すぐ3人に目を戻す。
「怪我人は退場だろ? 代わりに俺が相手になってやろーか?」
「…………」
 3人とも逃げ腰である。
 大志はカッターを自分の胸ポケットにしまい、腕を組んで威圧するように女たちを見下ろした。
「売ったケンカの始末くらいつけてけば?」
「う…、うるさいわね、覚えてらっしゃいっ」
 あくまでも強気な口調を崩さず、捨て台詞を残して茶髪がきびすを返す。他の二人も慌ててその後を追いかけて行った。
「フン……」
 ケンカに不慣れなお嬢様方が逃げ去ってしまうと、くるりと仙子に向き直る。
 険しい顔で右手を押さえていた。
 ぽたぽたと血が地面に落ちている。
「……血が出てるぞ」
「切れたんだもん」
「……ごもっとも」
 悪くもない大志をにらみ、仙子はふてくされたように口をゆがめた。
 それほどひどくやられたわけではないが、じわじわと血が止まらない。
 怪我をあまりしたことがないため、だんだん不安になってきた。
「……どーしよ」
「戻るか、学校? 保健室――」
「――はダメ。葵さんが怒る」
 怒られるのがいやというより、事情を知られたくない。
 困ったように大志を見上げる。
 大志は仙子の流血にたいして動じていない。冷静そうなので少しホッとした。
「じゃ、うち行く? 近いし」
 このまま病院に行くより、深田時計店までのほうが近い。
 家に帰って家の者に見られるのも困る。世話係の紅にも知られてしまう。
 芹沢家の娘が刃傷沙汰などとなると、大げさなことになりかねない。紅は仙子の前ではおだやかにしているが、実際は気性が激しいのである。
「……うん。頼むわ」
 ため息をつき、大志の申し出をありがたく受け入れることにした。



 尭己に腕を持ち上げられ、亮は捕まえられた犯人のような格好で顔をしかめた。
 傷も痛いが尭己の手も痛い。
「痛い」
「ん? ああ、ごめんごめん」
 謝りながらも手は離してくれない。
「傷口は心臓より高い位置にしといたほうがいいんだよ」
 そう言いながら、尭己は首にかけただけのネクタイをシュッと抜いた。
「とりあえずコレで……」
「…………」
 尭己は傷の上からネクタイをぐるぐる強めに巻きつけると、ようやく亮の手を離した。
 亮は言われたとおりに傷口を肩の高さにあげたままにしておく。ひりつくような痛みに顔をしかめる。
「手当てしないとな」
 そう言って、尭己は亮の自転車を地面から起こす。
「え? どこ行くんだよ」
「うち。近いから」
 ついてくるように促し、自転車を押して歩き出した。
 深緑公園の南口へ向かいながら、目の前にあるマンションを指差す。
「そのマンション」
「え、すげー近いじゃん」
 ほとんど隣である。学校とも目と鼻の先だ。歩いて5分くらいだろう。
「なんでいつも遅刻するんだよ……」
 3階建ての建物を見て、亮はあきれたため息をついた。


「入って、入って」
 最上階の3階に尭己の住む部屋があった。
 入り口を入ってすぐ左にあるキッチンスペースで傷口を洗い、真っ白なタオルを渡された。
 奥に入って、亮は頬をひきつらせた。
「うわ、すげ…」
 ワンルームで狭いが、新築のようで部屋自体はわりときれいだ。
 が、物がごちゃごちゃとひしめいていて座る場所があまりない。
 狭い部屋に3つも机があるので余計に空間が狭くなっており、更にその机の上にも物が雑多に載せられていた。
「…………」
 腕をあげたまま、亮は渋い顔で部屋全体を見回した。弟の秀の部屋と比較してしまう。
「あ、適当にそのへん座って。汚くないから」
 尭己は亮に声をかけ、戸棚を探っている。
「……ゴミは放置してないみたいだけど」
 秀の部屋は棚や引出しから物を出してそのまま放置するのでごちゃごちゃになるのだが、尭己の部屋はもっとすごい状態である。
 壁にポスターや、わけの分からない模様の布が飾ってあるため、ごちゃごちゃした印象が増幅している。変な模様がかいてある布のようなものもいくつか貼ってある。
 反対側の壁にはずらりと棚が並んでいて、中には小物が多い。
 本棚やラックの中に飾りなのかなんなのか、用途の分からないものが色々入っている。倒れていたり重なっていたりしていないので、ある種これで片付いていると言ってもいいのかもしれない。
 ぱっと見はどう見ても小汚いが、よくみると不規則ながら並んでいるような気がするという状態だ。
「えーと、この辺座ろう……」
 物のない開けた隙間に腰をおろし、テーブルの上に右腕を載せる。
「まだ痛む?」
「痛いけど、平気」
 小さな箱を持って尭己が入ってきた。
 それをテーブルの上において亮の斜め向かいに腰をおろすと、開けて中からガーゼや消毒薬を取り出す。
「つか、変な部屋……」
 棚に顔を近づけてみると、石や小枝などがおいてあったり、中に粉の入ったビンなどがあったりした。
「なんだよこれ……。インテリアにしては妙…」
 紅茶の缶のような、外国っぽい四角いものも多数並べてあったり、とにかくよく分からないものが多い。
 不審げに首をかしげながら、ひとつ手にとって見た。
「このビン、割れた鏡とか入ってるし……。なんでこんなのとっとくんだよ。捨てればいーのに……」
「あ、なんでも触んないほうがいいぜ?」
「え?」
 ガーゼを切りつつ、尭己がニヤリと微笑んだ。
 思わず焦ってしまうような、あやしげな笑みだった。魔術でもやっていそうである。
 亮の手にあるものを確認し、軽くうなずく。
「それは大丈夫だけど」
「…………なにが大丈夫なんだ?」
 不審げに眉をひそめると、尭己は肩をすくめた。
「まー、色々とあってな」
 色々というのが怖い。
 亮はビンを元の位置にそっと戻し、宮野たちの尭己に対する態度を少しだけ理解した。
 気にしたようすもなく、尭己は消毒薬を持って亮に手を差し出す。
「はい、腕出して」
「ん…」
 腕を尭己に任せ、視線はやはり部屋中を見回す。
「もしかしてお前んちじゃない?」
「俺の家だぜ?」
「……なんかよく分かんないけど、なるべく物に触らないようにするよ…」
 物に触ると怖いことが起きそうなのは分かったが、理由は不明である。
 尭己は巻きつけられていたネクタイを亮の腕からはずし、傷の様子を見た。
「ん、出血のわりに傷は浅いみたいだな。よかったよかった。血も止まってるし」
 そう言って面棒で消毒薬を塗り、傷の上にラップのようなものをかぶせる。
「えーと、ガーゼガーゼ……と、包帯は――」
 手際よくくるくると包帯まで巻き終えてしまった。
 あっという間である。
「はいできた」
 見た目もきれいで、非の打ち所のない処置である。
「……手馴れてるんだな」
「まーな」
 ふっと笑ってガーゼや包帯を小箱にしまう。思い出し笑いのような感じだが、聞くのも怖い感じがする。
 横に尭己のネクタイがくしゃくしゃと丸めてあった。
「お前のネクタイ血染めにしちゃったな」
「気にするな、亮くん。もう一本あるし」
 とはいえ、亮のために駄目にさせてしまったのである。
「俺のやろうか?」
 そういうと、ニヤニヤいやらしい笑みを返された。
「いーよ。ネクタイはいらない」
「ネクタイは……?」
 ちょっとぞっとしてしまう。
 内心恐れつつ、ジトリと横目でにらんだ。
「お前にカリ作るのってなんか怖い」
「そお?」
 否定されないのが余計に恐ろしい。
「そ、それにしてもきたねー部屋だな。一人暮らし?」
「一人暮らしだよ」
 こんなところに一家で住んでいられるわけがないので当然である。
「親とかは?」
 好奇心で訊いてみたが、尭己は軽く肩をすくめた。
「まー、色々あってな」
「仲悪いとか?」
「まー、色々だよ」
「そればっかり……」
 答える気はないらしい。
 亮は少しぶすっとして尭己をにらんだ。
「お前って実は謎の人物?」
「俺は俺だぜ?」
 ニッと口に笑みを浮かべた。



「大丈夫か?」
 大志は救急箱をクローゼットの奥から出してくると、部屋の真ん中のテーブルで傷口を観察して顔をしかめている仙子に訊ねた。
「血は止まったみたい。痛いけど」
 顔をあげずに答え、不機嫌にムスッとした。
 大志は仙子の斜めに腰をおろし、救急箱を開ける。
「手出せ。消毒するからちょっとしみるぞ」
 そう言って仙子の腕をとり、プシューっとスプレーする。
「……つー……」
 思ったより傷にしみる。
 こんなことになったのもあの女たちの逆恨みのせいである。
「まったく、やってくれるわね、右腕とは……」
 苦々しげに呟く仙子をちらりと見やり、大志は処置しながらさっきの女たちを思い出した。
「あいつらナニ? シメとこうか?」
「いーわよ、もう。かわいそうな女たちなのよ」
「なんだってあーゆー事態になったんだ? 刃物なんて尋常じゃねーな」
 上品な校風で不良生徒といえば尭己くらいしか思いつかないような学校である。物理的な争いとは無縁のはずだ。
 どちらかといえば生徒会の権力闘争が激しい感じの高校なのだ。
 しかも、仙子は芹沢家の娘であり、本質はともあれ人からはおとなしいと思われているのだ。
「あんたあーゆー厄介ごとに巻き込まれるタイプじゃないだろ?」
「勘違いしたただの逆恨みよ。私が葵さんと仲良くしてるから」
 フンとあっさり理由を述べるが、大志は軽く首を傾げた。
「葵さんて?」
「…………。保健室の先生知らないの? きれいなのよ? 男だけど」
「ふーん……?」
 よく分からないという顔をしている大志を仙子は珍しいものを見るような目で見た。
 葵を知らない者がいるなどと思っていなかったのだが、大志は世間に流されないタイプのようなのでそういうこともあるのだろう。
「でも、たまたま深田くんが通りかかってくれて助かったわ」
「…………。たまたまってこともないけど……」
 一瞬黙ってしまう。
 宮野と石巻の報告を受け、実は遠くからようすをうかがっていたのである。
 亮と仙子が深刻な顔でなにかを相談していたときかされ、とっさに浮かんだのは尭己の顔である。
 尭己が元のトラブルをいつも解決してきた大志としては放って置けない。いつも、尭己に関わると常識では考えられないようなとんでもないことが起こるのだ。
 今回もそうなのだろうと、大志の予感が告げていた。
「手際がいいわ。上手ね、手当て」
 仙子の声が聞こえて我に返った。
 見ると、無意識に手当てを終えていた。隠れた特技というべき染み付いた技である。
「昔から怪我が多かったから、俺。やつとの戦いで」
 当然尭己のことである。
 二人とも小さいころから体格が大きく、お互いを相手にしかケンカもできなかった。よくケンカを売りにいっては返り討ちにあっていたのである。
 思い出すとむかついてきて、仙子に分からないように少し苦々しく口をゆがめた。
「家の人間に見つかると叱られるから自分でひそかに手当てしてたんだよ」
「だから、部屋に救急箱があるの?」
「まあな」
 そう答え、少し残念そうな顔で仙子を見つめた。
「……ずいぶん昔にも、同じようなことを言った覚えがあるんだけど、お前に」
「?」
「……お前さ、小さいころ何度かうちにきたことあるんだぜ?」
 昔は素直で無邪気だったが、今の仙子は別人のようである。
 仙子の父が深田家にくるとき、よく仙子もついてきていた。親の用事がすむまでの間、よく遊んでやった。
「ふーん…? 記憶にないわ」
 悪びれる様子もなくあっさりそう告げると、大志はがっくりと肩を落とした。
「……がっかりだよ……」
 高校が同じになってまた少しは仲良くできるかと思っていたのだが、入学してこのかたどこで顔を合わせても知らん振りをされるのでもしかしてとは思っていた。やはり小さいころに大志と遊んだことなど忘れていたのだ。
「てゆーか、私、小さいときの記憶があんまりないのよ。あんまり印象に残るような生活してなかったみたいだから」
「そうか? けっこうド派手な生活してたぞ?」
 眉をひそめて疑うような目を向ける。
「そうだった? ホント、まったくと言っていいほど覚えてないわ」
 肩を竦めてそっけなく答える。
 大志はかなり落ち込んだ。それなりに大志になついていると思っていたのだ。
 かわいい妹分だと認識していたのに、仙子のほうは大志などどうでもいいようである。
「あ、じゃあ、あれは?」
 思いついて顔をあげる。
「昔あんたにやったあの――」
 ――あの女神像……。
 それを言いかけ、ふと亮の顔がよぎった。
 初めて大志の家に遊びにきたとき、亮がぴたりと言い当てた。あれは大志が昔仙子にやってしまったものだ。
 亮が知り得るはずがない。
 そして、もうひとつ思い出す。亮は庭を見て、巣箱がなつかしいと言いかけた。
 あれは大志が幼い仙子と一緒に作ったものである。
 不可解な表情で仙子に目をやり、無言で見つめる。
 仙子は何事かと問うような目で大志を見て、突然ピリッと偏頭痛を起こしたように目を閉じた。
「――――あ…………」
 くらっとしてこめかみを押さえる。
「ん……? どうした?」
 大志がその顔をのぞき見ると、仙子はうっすらそっと目を開けた。
「ん――……大志…?」
「…………え?」
 急に親しく呼ばれ、思わず聞き返す。
 仙子ははっとしてまずったように口を押さえ、自分を凝視する大志を困ったように見つめた。


 まばたきした途端、目の前の景色が変わった。
「わっ……あ――」
 発した声は亮のものだった。無意識に口元を押さえる。
 仙子はすぐに、また亮と入れ替わったのだと分かったが、多少慣れてきたとはいえ急に別の場所にいるのだから驚かないわけがない。
 しかも、見たこともないような雑然とした空間である。ごちゃごちゃと物がひしめいている。
「……って、え?」
 部屋以上に、向きあっている人物に驚いて目を瞠る。
 金髪でだらしなく制服を着崩しているのは、どう見ても尭己にしか見えない。
 亮の顔が驚いているのに気づき、尭己が小首を傾げた。
「ん? ……どうかした?」
「え、なんでもないわ――ぜ」
「へ……?」
 思わず言葉遣いが変になってしまい、尭己がぽかんと口を開けた。
「なんでもないよ」
 言い直すが、ごまかそうとしてつい怒ったような口調になってしまう。
「……亮くん?」
「な、なんだよ? ――……っつ」
 顔をのぞきこまれ、焦って目をそらす。右手を床についてしまい、痛みに顔をしかめた。
 見ると、きれいに包帯が巻かれている。
 これは亮の体のはずだが、仙子とまったく同じ位置に同じ痛みを感じた。
「……え? なんで包帯なんて……」
 そう言うと、尭己はあきれたように肩をすくめた。
「俺に料理してくれるとか言って、怪我したんじゃん。なに言ってんだよ」
「え、あ、そう。そうだった、そうだった。あはははは」
 考えなくても見破れそうなウソだが、仙子は状況の把握を焦っていた。
 乾いた笑い声を発すると、尭己にジトリと横目でにらまれる。
「そんなわけねーじゃん」
「え……」
 笑顔が固まってしまう。
 尭己はじっと亮の顔を凝視し、眉間にしわを寄せている。
「…………」
 真顔で見つめられ、息を留めて尭己の反応を待つ。
 どう対処したらいいものか困ってただ無言でいると、しばらくして尭己は深くため息をついた。
 うかがうような上目遣いで亮の顔を見つめ、思わぬ言葉を口にする。
「芹沢だろ……?」
「――! ゲホ…っ、ゴホ…っ」
「大丈夫か、芹沢」
 せき込んでむせた亮の背中を尭己がぽんぽんと叩く。
 亮が困惑した顔で尭己を見つめた。
「……なんで?」
 そう訊ねると、尭己は得意げに口角を上げた。フンと鼻で息を吐く。
「いつも見てりゃ分かるよ、そりゃ」
「…………」
 どこをどんな風に見ていればなにが分かるのか疑問である。尭己の言葉を判じかね、仙子は亮の顔で眉根を寄せた。
「なにをどう理解したわけ?」
「だから、亮くんと芹沢の中身が入れ替わったんだろ?」
 尭己はあっさり正解を言った。
「俺は前からヘンだと思ってたんだよ。亮くんも芹沢も」
「…………」
「夢で化学のプリント見たって言っただろ? 最前列の真ん中で重い銀色のシャーペン使ってるって聞いたときピンと来た。亮くんは化学得意だし。銀色の重たいシャーペン、俺がプレゼントしたもんだし。それに……」
 ――――ピリリリリリ ピリリリリリ
 尭己の言葉をさえぎり、亮のブレザーのポケットから電子音が聞こえた。
「あ、ケータイ――『せんちゃん』だわ……」
 そう画面に表示されていた。
 仙子が亮になったということは、亮は仙子になっているのである。
 さっきまで仙子は大志の部屋にいたことを思い出し、急いで通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『あ、俺?』
「……そうよ」
 変な会話である。自分でそう思いつつ頷いた。
 そして、仙子の声がどことなく楽しげに思いがけないことを言った。
『大志にバレた』
「……――え、そっちも?」
『そっちも…って、そっちも?』
「そうなのよ。ばれちゃったわ、高岡くんに……」
『えーい、気色悪いぞ、言葉遣い…っ』
 受話器の向こうから仙子の声が不満をたれる。
「悪かったわね……。そっちも気をつけろ」
 電話口に反論してからちらりと尭己を見ると、おもしろそうに口元がにやついている。軽くにらんでおく。
『と、とにかく、そこから深緑公園って近いでしょ?』
「そうなの?」
『そうなんだよ。窓から学校も見えるんだ――わ』
「へー、なのにいっつも遅刻するんだ、この人」
 嫌味っぽく言ったのだが、尭己はニヤニヤしている。
 亮の顔と声でいつもと違った表情というのを楽しんでいるのである。
 今はなにを言っても無駄である。
『俺…私たちも今行くからそっちも来てくださらないかしら、うふ』
「深緑公園には行くけど……やめろ、それ」
『はいはーい。じゃ、お待ちしてマース』
 仙子本人ならあり得ないような返事を返され、あきれて不機嫌に携帯電話を閉じた。
「ったく……」
 仙子になったのなら仙子らしくふるまってもらわないと困る。
 亮の顔に亮らしくないひねくれた表情を浮かべてそんなことを思った。
「新緑公園に行くって?」
「大志くんにもばれたみたいだから」
「大志? なんでお前が大志と一緒にいるんだよ」
 亮の口から君付けで大志の名前を聞き、尭己は思いきり不満げに口を尖らせる。
 亮は右手をあげて見せた。
「これよ、これ。右手。脅されてたのを助けてもらって、手当てもしてもらったの。川名くんのは? 本当はどーしたの?」
 仙子は女子生徒に切られたのである。同じ場所を亮がどうして怪我したのか不思議だった。
「急に切れて血が出たんだよ」
「え……」
「芹沢の影響だったわけだ」
 尭己は腕を組み、フムと納得したように頷いた。
「急にって……?」
 悪い予感を感じつつ、恐る恐る聞いてみる。
「言葉通り。なにもしてないのにいきなり」
「…………」
 意味が分からず目で問うと、尭己は肩をすくめた。
「傷が浮き出てきたんだよ。服に切れた痕跡もない」
 あっさりとした口調でそう告げられ、仙子は理解して驚愕した。
「そんな……。こういうのまで同調しちゃうってこと?」
 階段でのことを思い出す。
「さっき、私が足すべらせたとき、別行動だったのに川名くんまで一緒になって転んだのよ……」
 そのとき仙子が腕を動かすと亮も無意識に同じように動かしてしまい、二人で驚いていた。
 意識が交代するのだから意識が同調してとっさに同じ行動をとってしまうというのはまだしも、外部からの刺激まで同調するとしたら大変なことである。
 尭己は腕を組んで考え込んだ。
「双子だとお互いのショックが伝わるっていうよな。離れた場所で片方に衝撃的なことが起こると、同時にもう一方が心臓発作起こしたり……」
「怪我まで伝わるの?」
「さあ?」
「…………」
「…………」
 黙って見つめ合ってしまう。
 原因もこの先のことも尭己に訊いても分からないだろうと、仙子が亮の顔であきらめたようにため息をついた。
 憂いを帯びたような顔である。亮なら絶対に見せない表情なのだが、中身は仙子だ。
 尭己は思わず嬉しげに口元をゆるませてしまった。
「それにしても――」
「なによ?」
「新鮮なんだよな、そんな顔の亮くんってのは」
「あ、あのねぇ……。この非常時に変な冗談よしてもらいたいわ」
「亮くんの女言葉ってのも…なかなか……」
「…………」
 仙子自身のときは感じなかったが、亮になって尭己に接するとちょっと怖いものを感じてしまう。
「中身が芹沢で見た目は亮くんか……」
 満足そうにニヤニヤしている。
「怖いわ……」
「逆に向こうは見た目が芹沢で中身が亮くんか。それもいいかな〜」
「な…――――あ…………」
 抗議しようと口を開きかけた亮の顔が、ぱっと華やかなものになる。
「ん?」
 一瞬の変化に気づき、尭己はじっと亮を観察する。
「わ、戻った…っ」
「亮くんか」
 姿形は同じなのに、中身が違うだけでずいぶん違って見える。
 多重人格がまったくの別人に見えるというのも、これを見るとうなずける。
 亮はぱぱっとすばやく周りを見回すと、尭己をうかがうように下から見上げた。
「大志にバレたって?」
 それを聞き、すでに尭己が事情を把握しているらしいと分かって安心したように息を吐いた。
 亮は楽しげに肩をすくめた。
「入れ替わった途端に俺だってすぐ分かったってさ」
「ほう。生意気な」
「とにかく、深緑公園に行くぞ。もうあっちは到着してるんだから急がないと」
 立ち上がって行く準備をする。すでに大志と仙子が深緑公園の入り口まできているのは身を持って知っている。
 尭己を急かし、玄関で靴を履く。
「深緑公園か……。因果だなぁ……」
 ポツリと呟いた尭己を見上げる。
「なにが?」
「いや別に」
 そう言って尭己はどこか自嘲的な笑みを浮かべたが、一瞬だけだった。



 深緑公園の北口で、大志と仙子は尭己と亮を待っていた。
 街灯がともりはじめる時間帯である。
「薄暗くなってきたわね」
「6時すぎてるからな。まだ春だから日が落ちるのが早いんだろ」
 言われて時計を見ると、確かに大志の言う通りである。
 いつもとっくに帰宅している時間だ。
「そろそろ帰らないと各務さんが心配するわ」
 紅の秀麗な目元がきつくなった顔を思い浮かべる。
「まだかしら、あの二人」
 いらついてきた仙子に気づき、大志は慌てて人影を探した。
 ちょうど、長身と小柄の二人組みが見えた。
「…………あ、きた」
「た〜い〜し〜」
 大声で呼びながら手を振っている。
 近づいてきた尭己は、にやついて仙子を見た。
「よう、芹沢。大変なことになったな」
「あんた、おもしろがってない?」
「ぜーんぜん」
 仙子にジトリとにらまれたが、顔は笑ったままである。
 大志はそんな尭己を警戒するようににらんだ。
「…………」
 黙ってぐいっと亮の左腕を引っ張ると、自分の後ろに追いやる。
「な、なんだよ、大志」
「お前は下がってろ」
 抗議の声を制し、尭己に眇めた目を向けた。
「尭己に聞きたいことがある」
「フン…」
 大志の視線を真っ向から受け、尭己はシニカルな表情を浮かべた。
「そう疑わしい目つきをするな。お前の聞きたいことくらい分かる」
 困惑する亮と仙子を背後にして、大志は尭己をじっと見つめた。
「お前なんだろ?」
 口元に自嘲気味な笑みを浮かべた尭己に、大志が怒ったような顔で再度問う。
「この騒動。お前がやったんだろ?」
「なに言ってんだよ、大志。変な言いがかりだろ? 尭己がどーやってこんな……」
 理解不能だと首を振る亮をちらりと振り返り、視線で制する。
「お前は知らないんだから黙ってろ」
「知らないって、なにを?」
「…………」
 亮が眉根を寄せて大志を見上げる。
 大志は軽く舌打ちすると、なにも言わない尭己に視線を向ける。
「こいつは昔もこれと似たようなことやってるんだよ」
 大志がそう暴露すると、尭己はフンとため息ともつかない吐息をはいた。
 不審げに亮が尭己に目を向ける。
「……そうなのか?」
 亮は、宮野と石巻に尭己のことを訊いたときのことを思い出した。
 しきりに恐ろしい恐ろしいとくり返し、近づくなと忠告された。その理由は、神だから。
 変な冗談だと思ったが、自らの身に起こったことを考えると疑う余地がある。
 さらに、あのあやしげな部屋を見てしまった後である。
 不安げな眼差しを送る。
「…………」
 尭己はおもしろくもなさそうに肩をすくめて見せ、あきらめたように深くため息をつく。
「……俺は――」
 そのとき、近くの道路に自動車が止まった。
「仙子さん!」
「ん?」
 その場にいた4人ともがその方向へ目を向ける。
 黒塗りの高級車の後部座席から、私服の葵が姿を現した。不信感いっぱいの目で尭己をにらみながら、仙子のほうへ向かってくる。
「……げ――……」
 葵の背後に視線をやって、仙子は思わず頬を引きつらせた。



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