Crow the fake sun

「真昼に見る夢」-13



     第四章


 4人のもとへ、いつも以上に冷たい目をした葵が近づいてくる。
 その後ろからゆっくりと姿を現した人物を見て、仙子が顔をこわばらせていた。
「む? なんだ、葵さんの後ろからくる渋いステキなおじさまは」
 尭己だけが楽しげな顔をしている。
 他の3人は神妙な顔でその人物を見ていた。
 鋭い目をした狼系の中年男である。風格があり、人を圧するような雰囲気を持っている。
 身長も尭己と同じくらいあり、姿勢がやたらにいい。古武術の師範のようでもある。
「お父さん……」
「は? ……うちのお父さんよ」
 仙子がびっくりして亮を見た。思いがけない発言である。
 歩いてくるのは紛れもなく、仙子の父芹沢純一郎だ。
「あれ、俺なんか言った?」
「うちのお父さん見て、お父さんって……」
 無意識に口にしただけらしく、亮は仙子の言うことを不思議そうに聞いた。自分で言った覚えはない。
「うーん……。やっぱ同調してんのかな、せんちゃんと」
「さあ?」
 なにからなにまで同調されても困ると仙子は迷惑そうに亮を見たが、無意識なのでどうしようもない。
「それにしても……」
 尭己がニヤニヤと芹沢を観察している。
「中年の魅力……」
「バカ……」
 仙子はがっくりと肩を落とした。お気楽な尭己にあきれてしまう。
 芹沢は仙子にとってかなり厳格な父親なのである。
 仕事だといって外国に行っていたはずが、突然予定より早く帰ってきたのだ。
 よりによって今日でなくてもいいのに、タイミングがあいすぎて嫌になる。
 芹沢は、学生が放課後に制服でうろうろ歩き回ることをいいと思っていない。それを仙子も知っている。
 こんな現場を見つかって、後のことを考えると頭が痛くなってくる。
「仙子さん、なにしてるんですか、こんなところで」
 葵が責める口調で言った。いつもと呼び名が違うので、尭己が小首を傾げて仙子に目で問う。
「お父さんの前ではいい子ぶるのよ、葵さん」
「……ほお」
 にやりと企み顔で微笑む。
 少し嫌な予感がしたが、仙子はすでにそれどころではない状況にある。
 仙子は悟られないように、そっと右腕を芹沢の死角に隠す。怪我を見られないようにした。
 近づいてきた父が、厳しい目で仙子を見つめていた。
「仙子」
「な、なによ」
「なんだ、この腕は」
「あいたたた…」
 右腕をぐいっと少々乱暴にとられて傷が痛んだ。
 切られた制服の隙間から、白い包帯がのぞいている。
 ごまかしのきく相手ではなかった。芹沢の観察力は並大抵でないのである。
「ちょ、ちょっと怪我しただけよ」
 父の手を振り払い、反抗的な目をむける。
 芹沢はふぅとあきれたように軽く息を吐いた。
「誰かにやられたか……」
 その通りである。仙子は思わずギクリとして口元をひきつらせてしまった。
「他人に隙など見せるからだ」
 厳しい口調で言われ、仙子はフンと顔をそらした。
 芹沢はため息をついてから、大志に目を向けた。
「大志くんだったね」
 深田家とは親交があるが、大志と会うのは久しぶりなのである。
 この場を歓迎していると思えない芹沢の表情に、大志は少し気まずそうにぺこりとお辞儀した。
 困ったものだという目で芹沢がまたため息をついた。
 一同を見回し、ふと亮に目を留める。
「……ん? 君は……」
「え、あ。川名亮です」
「彼は仙子さんの友人です」
 亮が芹沢の雰囲気に飲まれてしまい緊張して答えると、葵が付け足して紹介した。
「ほう……」
 芹沢は鋭い目でじっくりと亮を見つめる。なにか考え込むようにしている。
「…………?」
「どこかで会ったことがあるような気がするのだが……」
 亮が首をかしげると、独り言のように呟いた。
 視線にさっきまでのあきれたものはなく、どことなく好意的だ。
「えーと……」
 初めて会ったような気がしないのは、亮も微妙ながら感じている。
 たぶん仙子と同調するせいだろうと思いつつ、黙っていた。
 それを芹沢が感じ取ったのだとしたら、鋭すぎである。少し恐れを抱いた。
「気のせいか……」
 記憶をいくら探っても亮を見つけられず、芹沢はあきらめて考えるのをやめた。
 密かに安堵した亮の隣で、尭己がわざとらしくニコニコしている。
 ちらりと目をやって嫌そうに眉をひそめ、葵のほうに視線を向ける。
 芹沢を前にして余裕ぶったニヤケ顔だ。芹沢は嫌悪感いっぱいの目で尭己を見た。
「で、葵くん、このニヤけた下品そうな男は?」
 金髪にピアスで、しかも制服はだらしなくはだけている。しかし、それ以上にかもし出す雰囲気が気に入らない。
 直接聞くのも嫌だという態度である。
「ただのクラスメートです。仙子さんとは親しくもなんともありません」
 冷たく言われ、尭己はフッと勝ち誇ったように微笑む。
「葵さんとは親しいけど」
「な…なにを言ってるんですか、君はっ。親しいわけないじゃないですかっ」
 さらりととんでもないことを言われ、葵が慌てて否定する。
 芹沢はあきれた目で葵を見た。
「なにを焦っているんだね、葵くん」
「う……」
 言葉に詰まってしまった葵に、またもや尭己がニヤリとした。
「やましいところがあるからだ」
「き、君は黙っててくださいっ」
 かなりの動揺ぶりに楽しくなって、わざと芹沢を意識しながら付け加える。
「ごめんごめん。二人だけの秘密だったね、葵さん」
「な…っ、やめてくださいっ」
 謝りながら手をとられ、乱暴に振り払った。
 あくまでも尭己は楽しそうである。
 葵は芹沢の機嫌をうかがうようにおろおろしたが、芹沢の視線は尭己に向けられている。
 亮のときと全く違った種類の目で尭己を見る。
「しつけの悪い……」
 野良犬を見るような顔でそう言われたが、尭己は平然と普段通りのニヤケ顔だ。
「…………名前は?」
「高岡尭己デース、お父さん」
 口調はふざけているが、目はかなり挑戦的である。
 仙子も大志も頭痛を感じていた。これ以上怒らせるようなことは言わないで欲しい。
「君にお父さん呼ばわりされるいわれはない」
 当然なことを言い、軽く尭己を一瞥する。
 次にちらりと仙子をにらみ、葵に顔を向けた。
「行くぞ、葵くん」
「は、はい」
 くるりときびすを返し、自動車に向かって歩いて行く。葵は慌てて返事し、仙子を促す。
「さ、仙子さん、帰りますよ」
「あ、ちょっと待って、まだ話が……」
 終わっていないどころか始まってもいない。
 ここまでの会話ではただ尭己が疑わしくなっただけで、このまま帰るわけにはいかない。
 しかし、芹沢を待たせて話を続けるわけにもいかない。
 仙子はどうしたものかと悩んでしまったが、葵は芹沢の言いつけを守るのが最優先である。
「ダメですよ、早く乗ってください」
 肩を押して連れていこうとしたのを尭己が真面目な顔でさえぎった。
「重要なことなんだよ、葵さん」
 腕をつかまれ、葵はキッと尭己をにらむ。
「……明日にして下さい。これ以上芹沢さんに不快な思いをさせられませんから」
 葵はかなり本気で怒っているらしく、いつもの冷たい目が怒りに燃えている。
 尭己は葵としばしにらみ合い、ふっと力を抜いた。眼差しも緩め、肩をすくめる。
「……へいへい、分かりました。引き下がりますよ」
「……君のせいですよ、全て」
 悪びれる様子のない尭己をいつもの冷たい目で見た。
「さ、行きますよ、仙子さん」
「あ、うん……」
 仙子は困った顔をしたが、言われるままに車に向かった。
 尭己に目を向けたが、なにか考え込んでいて仙子の視線に気付かなかった。
「…………」
 亮は行ってしまった黒い高級車を見送ってから、不安げに大志を見上げた。
「どーしよ……」
「…………」
 大志も口を堅く結んで仙子の乗った車を見ていた。



 黒いローテーブルの上に大志の小学校の卒業アルバムを広げ、亮は頬杖をついて見るとはなしにページをめくっていた。
 大志は黒のシステムデスクの椅子に腰掛け、足と腕を組んでそれを見下ろしている。
 6年2組。集合写真の一番後ろに、突出して頭二つが出ている。大志と尭己である。
 多少幼い顔をしているが、いまとそれほど変わらない印象だ。小学校卒業の時点で既に子供の域をを脱しているようである。紺の制服と帽子が似合っていない。
 亮はぼんやりしている大志を見上げた。
「なー大志。尭己ってなんなんだ?」
 そう問うと、大志は無表情で観察するようにじーっと亮を見つめた。
 あの場ではつい暴露してしまったが、言っていいものかどうか冷静になると迷ってしまう。
 黙っている大志に、亮は歯がゆそうに口を尖らせた。
「宮野と石巻は…――神って言ってたぞ?」
「…………」
 おちゃらけた二人の顔を思い浮かべ、大志はムッと眉間にしわを寄せた。
 宮野と石巻は既に亮に余計なことを吹き込んでいたのである。
 亮に白状しろというような目で見られてしまい、大志はあきらめてため息をついた。
 どっちにしろ亮は被害者なのだから、知る権利がある。
「……確かに不気味だったからな、やつは」
 どうせなら本人の口から語ってもらいたかったが、尭己は大志と亮が芹沢家の車に気をとられているすきに忽然といなくなったのだ。
 呼んでもでてこなかったため、あきらめて探すのをやめた。そして二人で大志の家へ来た。
 少し言いにくそうに顔をしかめつつ、大志はしかたなく肩をすくめた。
「今はヘラヘラしてるけど、昔は血生臭くて魔性っぽかったんだよ。5歳になる前のガキなのに、異様な雰囲気があって周りから畏怖されてて」
 なにがどう違うというわけでもないが、目が合っただけで思わず寒気を感じてしまうような不気味な子供だった。
「満月になると牛に変身するとか、夜な夜な町を徘徊してカラスの生き血をすすってるとか、悪魔と交信して猫を食わせるとか……」
 大志は眉をひそめている亮に気付いて、ぽりぽりと指先で頬をかく。
 普通なら真面目に言うのもはばかられる内容だが、尭己に関しては当時は本気でそう噂されていたのだから仕方がない。
「とにかく、そういう噂がたっても不思議じゃない感じのガキだったんだよ」
「ふーむ……」
 どう受け取ったらいいものか、亮は眉間を押さえて悩んでしまった。
「深緑公園の尭己っていったら恐ろしいってのでかなり有名だったぞ。棲む世界が違う感じで、まあ当然大人も子供もみんな近寄りたがらなかったな」
「うーん……」
「それだけならバカバカしい噂ってことですますんだけど……」
 そう言って大志はあごに手をやり、考えるしぐさをする。
 大志の性格ならそうだろうと、亮もうなずいた。
 なにか確証がなければ、大志が尭己をあれほど警戒し、疑うことはないはずだ。
 じっと見つめる亮の目をまっすぐ見つめ返し、大志は普段の無愛想な顔で口を開いた。
「やつは本当に人間離れしたことをしたことがある。魔術でも使ったみたいに」
「マジで?」
「宮野と石巻が被害にあってるんだ」
「…………」
 亮は無言で目をしばたかせた。
 尭己に対する宮野と石巻のあの恐れ様を思い出していた。
「北欧出身のばーさんが精霊使いで、やつ自身も変な術を使うってのを聞いて、やってみせろって言いにいったことがあったんだけど…」
 大志はため息をつき、思い出しながら独り言のように話し出した。


 大志は宮野と石巻を連れて、深緑公園へ乗り込んだ。
 いつも尭己がいるのは、北口から少し入ったところにある大きな木の下だった。
 少し離れたところに花壇があり、色とりどりの花が咲いている。
 尭己の姿を見つけ、胸を張って近づいていった。
 そこだけ切り取ったような異世界だった。尭己の周りの空気がよどんで異様な雰囲気をかもし出している。
「お前のばーさん、魔女だってな」
 このころは大志の方が少しだけ背が高かった。
 仁王立ちで見下ろすように目を向けると、尭己は下から不気味ににらみあげるようにした。
「…………またお前か」
 おとなしくぐったりとした黒猫を抱き、さげすむような目で大志を見る。
 大志の後ろにいた宮野と石巻は、怖くなって一歩下がった。本当なら尭己に関わりたくないが、大志の命令でいやいやついてきたのである。
 尭己は3人を一瞥し、口に嘲笑を浮かべた。
「フン。無力で下賎な一般民がなんの用だ? 俺は術の復習で忙しいんだ。実験材料にされたいのか?」
 すっと目が細められる。
「た、タイタイ、帰ろうよ〜」
「こわいよ、こわいよ〜」
 宮野と石巻が泣きそうな顔で大志に訴える。
 大志は内心ひるみながらも、気合を入れてムッと口を結んだ。
「なんだ意気地なしめ。こんなやつ怖くもなんともねーよ。猫とじゃれてるだけじゃねーか。みんなで怖がるから調子に乗るんだ。こんなやつ、俺がボッコボコにしてやる」
「……フン」
「どうせばーさんが魔女なんてのもウソに決まってるだろ? なにかできるならやって見せろよ」
「フン。ばーか、なんでお前に披露しなきゃならないんだ」
「やっぱりできないんじゃねーか」
「……うるせーな」
 馬鹿にするようにいうと、尭己はムスッと不機嫌に大志をにらんだ。
 そして、フッと子供と思えない邪悪な笑顔を作る。
「今さっき大技を使って疲れてるんだけど……そんなに見せてほしいんならやってやろうか?」
「な、なにをやるって言うんだよ」
「そうだな。もう一回くらい昨日教えてもらったやつの練習でもしておくか。――この猫を見てな」
「な、なんだよ」
 たじろぐ大志の前で、尭己が猫を地面に下ろす。
 猫は大志の足元へやってきて、大志を見上げた。
「にゃーにゃー」
 普通の猫である。大志が不審げに猫を見下ろしていると、猫に変化が起こった。
「にゃ……――ワン! ワンワンワン!」
「げ、犬になったぞっ」
「た、タイタイ、ヤバイよ…っ」
 3人が見ている前で、猫は犬の鳴き真似をした。
 犬のように勢いよく走り出し、驚く宮野と石巻の間を通り抜けて走り去っていく。
「うわ〜うわ〜」
「ヤバイよヤバいよ〜」
 半泣きで宮野と石巻が手を取り合う。
「な、なんなんだよ。猫が犬の真似したくらい」
「フン」
 強がる大志を鼻で笑い、尭己は視線を宮野と石巻に向けた。
 その途端、二人が思い切り驚いた顔で飛びのいた。
「お、俺がいるっ」
「うわっ、誰だお前っ」
 二人はお互いの顔を見て恐ろしいものを見るような顔になった。
 大志はわけが分からず様子を見る。
「ま、マキマキ、どこだ?」
 石巻が石巻を探すようなことを言う。
「なに言ってんだ、マキマキは俺だろ?」
「お前は、俺じゃないか」
「お前こそ俺だろ?」
 二人とも混乱している。
 大志は尭己に詰め寄った。
「お前二人になにしたんだよ」
「中身を入れ替えてやっただけだ」
 尭己は魔性めいた陰湿な笑みを浮かべた。
 その言葉が聞こえ、二人ともきょとんとして見つめあった。
「お、お前がマキマキ?」
「ミヤなのか?」
 呆然としている。
 クスリと尭己が笑ったのが聞こえ、大志はその襟首を掴んだ。
「戻せっ」
「フン、すぐに戻るさ」
 大志の手を叩き払い、吐き捨てるように答える。
「本人の肉体と精神は結びつきが強いんだ。他人が長く入っているなんて不自然だから、すぐに拒絶される」
「う…こわいよこわいよ〜」
「うえーんうえーん」
「う、うるさいっ、こんなのたいしたことないっ」
 その場に座りこんで泣き出してしまった二人に怒鳴り、大志はまた尭己を捕まえようとした。
「は…っ」
 尭己はその手を逆に掴み、柔道の投げ技のように大志をなぎ倒した。
「――って〜……っ」
「うえーんうえーん」
「こわいよこわいよ〜」
 大志が大の字に倒され、その横で宮野と石巻が泣いている。
 尭己が楽しげに笑った。
「あはははは。傑作だな」
「出直しだ、ミヤマキっ」
「えーんえーん」
 立ち上がって二人を引っ張り、大志は逃げるように深緑公園を去った。
 尭己が不気味な笑顔で3人を見送っていた。


「へ、へー……」
 亮は今の尭己を思い浮かべて頬を引きつらせた。
 大志が椅子に深く座り直して腕を組み、フンと鼻息を荒げた。
「ま、それ以降も恐れず立ち向かっていったけどな、俺は」
「信じられない……」
 ぽそりと呟く亮を不機嫌に見下ろす。
「事実だ。俺は見た」
「ふむー……」
 事実、亮も仙子と中身が交代しているが、それが人為的なものだとは信じられない。
 確かに尭己は学校でもちょっと浮いた存在だ。上品な名門校にあの格好では周囲に溶け込めるわけもないが、それ以前にもっと根底から異質な存在だったのだ。
 宮野と石巻が尭己を恐れるのもこの事情があるからなのだろう。
「それで、宮野と石巻、ちゃんと元に戻ったんだろ?」
「ああ、すぐにな」
 尭己の言う通り、その後数分で元に戻ったが、それ以来二人とも絶対尭己には近寄りたがらなかった。一種のトラウマである。
「でもなんだって俺とせんちゃんが人格交替しなきゃならないんだ?」
「さあな……。やつの考えなんて分かりたくもない」
「…………」
 大志は吐き捨てるように言ったが、亮はどうも違うような気がして首をかしげる。
「尭己の仕業じゃないと思うけど…」
「いーや、やつに決まってる。こんなこと他の誰ができるんだ?」
 そんな風に言われると反論の仕様がない。亮はふくれっつらを作って大志をにらむ。
「大志って尭己のことになるとムキになるよな」
「誰が…っ」
 またムキになりかけ、大志は椅子に座り直してフンと顔をそらした。



 芹沢家の書斎。館の外見に反し、この部屋は最新オフィスのような様相である。
 重厚感はあまりなく、軽快で颯爽とした雰囲気だ。
 青系無地のカーペットで、壁の一面だけ書棚になっており、その上にはロール式のスクリーンが設置してある。
 パソコンが3台壁際にあり、窓際にある芹沢の机の上にもモニターが2台。配線は全て隠されていてすっきりした印象だ。
 コピー機やプリンタも完備され、完全に会社っぽい。
 椅子に腰掛けた芹沢の後ろに葵が控え、その机の前に仙子が立っている。失敗をやらかして上司に呼び出された部下のようである。
 少し離れてドアの前に紅が立っていた。
 芹沢が肘をついて胸の前で手を組み、反抗的に顔を逸らしている仙子を厳しい目でにらんだ。
 深緑公園から帰ってそのままこの部屋へくるまでずっと無言だった芹沢が、ようやく口を開く。
「こんな時間まで制服のままふらふらと遊びまわるとは言語道断だ。明日から一歩も外に出さないから覚悟しておけ」
 第一声がそれである。ムッとして眉間にしわを寄せた仙子に、さらに付け加える。
「学校にも行かなくていい」
「お断りよ」
 仙子はフンと顔をそむけるが、冷たい口調が返ってくる。
「命令だ」
「横暴よっ」
「…………」
 芹沢はじっと仙子を見つめ、あきれたため息をつく。
「あんな変な不良生徒と関わっているから、しなくてもいい怪我まで負わされるんだ」
 そう言われ、仙子は一瞬考えてしまった。芹沢は右腕の怪我を言っている。
「高岡くんのこと言ってるの? 違うわよ、この怪我だってむしろ――」
 葵のせいである。ちらりと葵に目をやった。
 あの態度ですっかり芹沢が尭己を嫌ったのは分かるが、怪我のことはまったくの誤解である。
「あの髪だって遺伝だし、外国育ちだからちょっと変かもしれないけど――」
 反論しようとしたが、聞く耳を持たない芹沢は仙子を無視して紅に目を向ける。
 この場での仙子の言葉は逆効果なのである。
「紅くん」
「はい」
「仙子を部屋に」
 紅が仙子の横まで歩いてくると、芹沢は連れて行くようにと手で示す。
「鍵を閉めて閉じ込めておいてくれ」
「な…っ」
「いい機会だ。日頃の生活態度を少しは反省させた方がいい」
「はい……」
 紅は小さく頷き、隣りの仙子を申しわけなさそうに見た。
「なによ、各務さんっ」
「仙子さん、行きましょう」
「いやっ」
 促されたが、部屋に入れば鍵をかけて閉じ込められるのである。
 おとなしくそんなことをされるつもりなどない。ご免である。
「……しかたないですね」
 紅はそう言って、ちらりと芹沢に目を向けて了解をとる。
 訝しげに眉をひそめた仙子をあっさりひょいと抱えあげる。
「わっ! ちょっと…っ、降ろしてっ。降ろしてよっ!」
 肩に担がれ、慌てふためいて仙子は紅の背中を叩く。
 葵が驚いた顔で見ていた。
 細腕のくせにたくましい限りだ。紅は仙子の体重などものともせず、姿勢を正して芹沢に一礼した。
「失礼します」
「…………」
 葵の筋力では暴れる仙子を担いだまま片手でドアを開けるのは無理である。見た目はそれほどごつくもないのにたいしたものだ。
 紅は静かにパタンと戸を閉め、仙子の罵声を聞きながら芹沢の部屋を出て行った。
「やれやれ……。困った娘だ……」
 静かになった部屋で、芹沢がうんざりとした口調で呟いた。
 葵が困った顔で目を伏せる。
「仙子さんには、僕からも忠告してはいるんですが……」
 忠告などしたこともない。逆にサボリ癖を助長させているくせにさらりとそんなことを言う。
 芹沢には学校で葵が仙子を甘やかしていることもお見通しだったが、それについてはなにも言わずにため息をついた。
「もともと聞き分けのないやつだ。葵くんのせいではないよ」
「すみません……」
「……あれが我が娘とは……」
 言いかけて芹沢はふと亮の顔を思い出してしまい、不可解に首を傾げた。



 2階の芹沢の書斎から3階にある仙子の部屋まで、紅は肩に仙子を担いだまま悠々と階段を上って歩いてきた。
 その間仙子は暴れ、何事かと使用人が数名様子を見に来たのを目で追い払った。
 無言のまま仙子の部屋へ入ると、後ろ手に扉を閉める。
「バカーっ、各務さんのバカっ、なんであんなののいうこと聞くのよっ」
 ぽかぽか殴られ続け、さすがにブスッとして顔をしかめた。
「なんでみんなお父さんの言いなりなのよ〜っ」
「おとなしくしてください、仙子さん」
「いやっ」
 まるで子供である。
 紅は憮然としながらも、包帯を巻いた右手を気遣ってゆっくりと仙子をベッドの上へ降ろした。
「だいたい日頃の行いってなによ、いつも家にいないくせにっ。葵さんがチクったんだわ、絶対っ」
 拗ねたような恨みがましいような目で紅をにらむ。
「各務さんだって、みんななんなのよ。へーこらしちゃって」
 非難の目を向けられ、紅は心外だというように顔をしかめた。
 仙子が座っている前にひざまずき、毅然とした眼差しで仙子を見上げる。
「……ご当主には悪いですけど各務家は昔から姫に忠誠を誓ってきた家系です。私が仙子さんを悪いようにするわけがないでしょう」
 一瞬黙ってしまった仙子にニコリと微笑む。
「あなたのためなら死ねますよ」
「――な…、なによ……」
 思わず顔を引きつらせる。
 もともとの作りが美形な紅である。尭己が喜びそうな顔だ。
 仙子を黙らせてしまうと、紅は顔を元の凛としたものに戻した。
 そして不信感いっぱいに目を逸らした。
「あんな、新参者の藤谷さんとは違います。いつでも仙子さんのいいようにちゃんと考えてますから」
「…………」
 また葵の名前が出て、仙子は怪訝に首を傾げた。
 それに気付き、紅はごまかすように軽く咳払いして立ちあがる。
 コンコンとドアがノックされ、手配通りに使用人が薬箱を持ってきた。紅がそれを受け取り、仙子の横に腰掛けた。
「さ、手を出してください。ちゃんと手当てしておかないと……」
「……はい」
 おとなしく右腕を出す。
 紅は制服の右腕をまくり、大志の巻いた白い包帯をくるくるとほどいてゆく。
「…………」
 感心したような顔で傷口に当てられたフィルムをはがす。
「わりと……というかかなり丁寧に手当てされてますね。病院にでも行ったんですか?」
「え、ううん。そんなに上手にやってあるの?」
「ええ。几帳面な友人がいるんですね、仙子さん」
 そっけない口調だが、紅が誉めるくらいだからかなり丁寧なのだろう。
「ふーん……」
 見かけのわりに内面は意外と繊細なのかもしれないと、仙子は大志の無愛想な顔を思い浮かべた。
「痛みますか?」
「そんなに痛くはないわ」
 切り傷なのでそれなりに痛いが、行動に支障をきたすほどではない。重いものを持ったりしなければ大丈夫だ。
 紅はいつものきつい目にホッとしたものを浮かべた。
「よかった。仙子さん、昔は病弱でちょっと血を出しただけですぐ発熱してましたからね」
「……そうだっけ?」
 思いきり怪訝に眉をひそめる。
 病弱を装ったことはしょっちゅうあるが、実際に病弱だった記憶はあまりない。
「そうですよ。庭に出ただけでも貧血起こして倒れたり」
「私が?」
 庭に出ただけで貧血となると、かなりの虚弱体質である。
「小さい頃深緑公園でよく遊んでたような気がするんだけど……」
 そう言うと、紅は嫌そうに口をゆがめた。深緑公園と聞くと必ずこの反応である。
「あり得ませんね。2、3度行ったか行かないかくらいです」
「そんなはずは……」
 仙子は戸惑って首をかしげるが、紅は右腕の手当てをしながらきっぱりとした口調で断定する。
「いいえ。5歳くらいから急に元気になりましたが、その前はほとんど家から出ていませんし」
「……そうだったかしら……?」
 小さいころの記憶はやはり不鮮明なのかもしれない。
 しかし、深緑公園のあの大きな木の下から見た光景ははっきりと覚えているのである。最近のことではないので、亮の感覚が伝わったのだとも思えない。
 納得がいかないような顔で首をひねっている仙子に、紅はため息をついた。
「昔、深緑公園へ散歩に行ったとき、仙子さんが家の者と離れて迷子になったんですけど、覚えてませんか?」
「全然」
 仙子は自分のことなのに、初めて聞いたような顔で首を振った。
「そのときは大騒動でした。花壇の傍に倒れて死にかけてましたから、仙子さん」
「え……?」
 信じられず、疑惑の目を紅に向ける。
 そんなことがあったなど、今ままで全く知らなかった。覚えていない。
「急いで病院に運ばれて助かったんですけど、それからは深緑公園はタブーです。一度も行ってませんよ」
「そうだっけ?」
「そうです」
 紅は事実だと深くうなずいてみせた。
「だから各務さん、深緑公園にいい印象もってないってこと?」
「そうですよ。それに……」
 口ごもり、思い切り不機嫌に口をゆがめた。
「そのころからです。藤谷さんが芹沢家にくるようになったのは」
「お父さんとお兄さんがなくなって大変だったのをうちのお父さんが援助してあげたのよね?」
 仙子はそう聞いている。
 先祖代々芹沢家に仕えている各務家の紅にして見れば、葵のような素姓の知れない者が出入りするのは気に入らないのかもしれないが、そこまで嫌うこともないのにと思いつつ、苦々しい顔の紅をちらりと見る。
 包帯を巻く手が止まっていた。
「…………」
「どうしたの?」
「いえ……」
 ごまかすように目をそらし、くるくると包帯を巻き終える。
 少しきつく巻いていた大志に比べ、やさしい巻き方である。圧迫感がない。
 紅は残ったガーゼなどの後始末をして薬箱を閉じると、すっと立ち上がって仙子に保護者のような目を向けた。
「仙子さん、今日はとりあえずおとなしくしていてください。明日はちゃんと学校に行けるように私の方から御当主に頼んでみますから」
「あ、うん」
 右腕を見ながら返事する。
「では、失礼します」
 一礼し、紅が部屋を出ていく。
「…………」
 戸が閉まると、仙子は密かに耳を済ませた。
 予想通り、カチャリと小さく外から鍵の閉める音が聞こえた。
「やっぱり言いなりじゃないの……フン」
 ぶすっとむくれてベッドに倒れこみ、はっとしてテーブルの上を見る。
 さっきまでおいてあった場所に携帯電話がなくなっていた。充電器を見ても何もおいていない。紅が持っていってしまったのである。
 がっくりと肩を落とす。
「……裏切り者〜」
 こぶしを握って歯噛みした。
 尭己に聞きたいことも色々あったのに、これでは誰にも連絡がとれない。
 深緑公園での会話を思い出しながら、仙子は深刻な顔で天井をにらんだ。



 ごちゃごちゃとわけのわからないものが雑多においてある部屋のじゅうたんの上で、尭己は本の類をテーブルの上に重ねて1冊ずつ中身を調べていた。
「……えーと、コレじゃないなぁ」
 ぺらぺらめくっていた渋茶色の古い本を閉じ、テーブルの下から濃い紫色の表紙を引っ張り出す。
 首をひねってそれを見て、他の紫の本に目を移した。
「こっちだったかなぁ…」
 斜め後ろに置かれた紙の束をガサガサあさる。古くなって黄ばんでいるどころか、端が擦りきれていたり破れて脆くなっていたりもする。相当の時代物だ。
「なんでこんなにいっぱいあるんだよ、ばあさんの秘伝書〜」
 半分いらつきながら紙をかきまわし、視線を他へやって黒い本に目を留めた。
「あ、その黒い表紙の本くれ、大志」
「…………」
 ぶすっとした大志が、手元にあった薄い本に目をやる。黒い表紙である。
「ほらよ」
 尭己に投げてよこし、不満げに眉をひそめた。
 気にした様子もなく、尭己はもらった本の目次を追う。
「えーと……、豊作の術〜? 違うじゃねーか、これも…」
 さっきから何冊も何冊もこの調子で調べているが、目的の物が見つからない。
 ため息をついたところに、大志の不機嫌な声がよこされた。
「おい……」
「ん〜、なんだ?」
 言いたいことは分かっているが、白々しく受け流す。
 大志が更にムスッと顔をしかめた。
「なんで俺がお前のアシスタントしなきゃならねーんだよ」
「だってお前しか頼れねーもん」
「…………」
 へらへらと、思いもしない返事を返され、大志は頬を引きつらせた。
 亮が帰ったあと、夕食をすませ入浴もすませた大志が部屋へ戻ると、いきなり部屋の中に尭己がいたのである。テーブルの上にあった小学校の卒業アルバムをにやついた顔で見ながら勝手にくつろいでいた。
 こんな時間に大志の客を家のものが部屋に入れるわけがないと思ったら案の定、窓から入ったと言われて頭を抱えた。そのまま、あれよという間に自転車の二人乗りで尭己の家まで連れてこられてしまったのである。
 そして探しものを手伝えといわれ今こうしているのだが、強引すぎる。あきれてものが言えない。大志はパジャマ姿のままである。
 思いっきりわざとらしくため息をついてやったが、そんな大志を見もせず尭己はめくったページに反応した。
「――あ、これか?」
「あったのか? 元に戻す方法」
 急いで尭己の見ている本をのぞきこむが、フンと鼻で笑われた。
「違〜う。俺が探してるのは二人を元に戻す方法じゃないんだぜ、小鳥ちゃん」
「なんだよ、小鳥って……」
 顔をしかめつつも、深く訊かないことにする。
「……じゃあ、なにを探してるんだ、お前は」
 仙子と亮のあの状態を解決するべく探し物をしているはずである。
 しかし尭己は大志に顔を向け、ニヤリと邪悪に微笑んだ。久しぶりに見る顔である。
 内心たじろいだが顔には出さないでにらむと、ふふんといつものニヤケ顔であっけなく答えが返された。
「俺が探してるのは邪本だよ」
「邪本?」
「つっても邪悪なもんじゃないから安心しろ」
「お前の存在自体がヨコシマなんだ。信用できるか」
「自然の摂理に逆らうものを全部一緒くたにまとめただけだよ。ま、使いようによっては邪悪にもなりうるから、戒めなんだろうな」
 そう言いながらも、尭己は次々本をあさっては目次を見ている。
 かなりの冊数があるので、これを全部調べるのは大変なことだ。急いでも朝方までかかるかもしれない。
 ワンルームで物が雑多にあるため、巨体二人がいるだけで狭苦しい。
 なにを調べればいいのかも分からず、居心地悪く尭己を見る。
 尭己は顔をあげず、本に目をやったまま口を開いた。
「実は…、お前に貸してもらいたいもんがある」
「なんだ?」
 尭己がちらりと目をあげる。いつになく真面目な眼差しだ。同じように大志も尭己を見た。
「じーさんに電話して聞いたんだけど、やつの記憶によるとアレがお前の家にあるらしいんだわ」
「アレ?」
「屈折の女神像――だ」
「…………え?」
 一瞬黙り、思い浮かんだのはブロンズの女神像だった。
 昔旧宅の書斎にあるキャビネットの中に入っていたものである。
 この間、亮が気を失ったあと言い当てた、あれのことを言っているのだろうと、眉をしかめる。
「そんなデカイもんでもないし、どっか棚の上にでも飾ってないか?」
「……ない」
 断定する大志に、尭己が不満げな顔を見せる。
「ない〜? 探せよ、あるはずなんだから」
「ないんだよ。昔芹沢にやったから」
「……は?」
 思い切り意外な顔で口を半開きにする。
 大志はぶすっとして腕を組んだ。
「5歳のころだ。おとなしかったあいつが唯一興味持ったもんだから、気に入ったんならやるって……」
「…………」
 尭己は頭を抱えたが、必要になると思っていなかったのでしかたない。
 やってしまった物はやってしまったのである。
「……ふぅ。じゃあ、芹沢にもらえばいいな」
「そ、そうだな」
 仙子は覚えていないような気がしてあいまいにうなずいた。もしかしたら忘れ去られて、芹沢家にもおいてないかもしれない。
「でもなんでお前のじーさんが俺んちのもの……」
「元々あの女神像はうちのばーさんの所蔵だからな。じーさんが勝手に持ち出しただけのことで。お前んちに売り払ったのかもしれねーけど、相続して今の持ち主は本来なら俺だぞ」
「…………」
 まさかと思い、大志は眉間にしわを寄せた。
 全くの想像外である。
 尭己がにやついて大志を見た。
「お前が思ってるより、俺とお前の因縁は深いってわけだ。一生離れられないかもな〜?」
「…………」
「そう嫌そうな顔をするな、大志。俺だって、亮くんとの仲をずっと邪魔されるのかと思うとうんざりする」
 笑顔で言われ、ショックで頭痛がした。
「……なんて迷惑なやつなんだ、お前は」
「お互いさまだ」
 尭己はフンと鼻息を吐く。
 見ていた本を閉じ、きょろきょろとあたりを探した。
「……えーと、あっちの赤い本取ってくれ」
「……ほらよ」
 渡すと、すぐ目次を辿り出す。とにかく時間がないのである。
「あと、腹減ったから夜食買ってきて。近くにコンビニあるから」
「…………」
 ムスッとして黙った大志に、尭己が顔をあげて含み笑いをよこす。
「店長がなかなかかわいいぞ」
「…………」
 嬉しそうな顔で言われても困る。がっくりうなだれてため息をついた。
 そして、ジトリと咎める目を向けた。
「それより……、10年前になにをしたんだ?」
 意表をつくことになったのか、尭己がピクリと反応した。が、軽く受け流される。
「軽い気持ちで、ちょっとな……」
「ちょっとってなんなんだよ」
 怒ったような口調になると、さすがに尭己は手を止めて大志に目を向けた。深くため息をつく。
「まだ確信したわけじゃねーし。……どうすりゃいいのか俺自身も迷ってるんだ」
「邪本なんて探してるくせに、迷ってるって?」
 大志の指摘にムッとした顔をした。
「……念のためっつーこともあるんだよ」
「言ってみろよ、それ」
「お前に?」
「…………」
 フンとあざけるような目で見られ、憮然として尭己をにらむ。
「大志に言ったってなにができるってわけじゃねーしな」
「…………」
 確かに、仙子と亮の状態は大志にはどうしようもない。
 黙りこむと、尭己は少し後悔の念を顔に出した。
「俺がもっと早く気付いてればよかったんだけど……、いまさらなんだよなぁ……」
「…………」
「…………」
 大志がじっと尭己を見つめ、尭己も不機嫌な目を向けてくる。
 二人とも無言でしばらくにらみ合い、やれやれと尭己が肩をすくめた。
「……これを言ったらお前まで悩むことになるぞ?」
「なんだよ、言えよ」
「いいのか?」
「知らないよりいい」
「…………」
 それでもまだ尭己は考え込んだ。
 大志はぶすっと顔をしかめ、責めるように尭己をにらむ。
「なんで言わねーんだよ、いつも」
「……いつも?」
「3年前も、挨拶もなしにいなくなりやがったし」
「…………」
 尭己が祖母に連れられて外国へ引っ越したのが3年前である。
 それまでずっと敵対関係で、ケンカしかしたことがなかったが、急にいなくなったと思えば、あとから人づてに外国に行ったのだと聞かされたのだ。それも宮野と石巻からである。
 日頃大志が尭己に向ける恨みがましい目は、それが不満だったのだ。納得して尭己はフンと鼻で笑った。
「身長がまだ足りなかったんだよ」
「……は?」
「塀を乗り越えるには、な」
「…………」
 要するに、今日のように窓からの侵入を試みたということである。
 あの頃は今より頭ひとつ分以上身長が低かったのだ。確かに塀に上るのは厳しい。
 なんとなく脱力して大志はため息をついた。
「アホか、お前は。わざわざ窓からなんか……」
 顔をしかめ、ブツブツ言いながら立ち上がる。
「……夜食買ってくる」
「あ、たまにくる金髪のおにーさんは怖くないって店長に言っといて」
 ニコニコと言われ、愛想の悪い顔でフンとそっぽを向いた。
「……危険人物だって言っといてやる」
「あ、やめて、大志くん。なにも言わなくていいから」
「うっせー。おとなしく調べとけ」
 尭己の懇願を無視してそう言い残し、大志はとりあえず食料調達に行くことにしたのだった。



 教室の窓際は、春の陽射しが入り込みぽかぽかと暖かい。
 一番最後尾の席では、大志が机に突っ伏して眠り込んでいた。
「……ぐぅ」
 結局朝方近くまで尭己の部屋で手伝いをさせられて、家に帰ったのは5時である。やっぱり帰りも自転車の二人乗りだった。
 家の者に見つからないようにこそこそと裏口から家に入り、布団に入って1時間もしないうちに起こされてしまったので当然眠い。
 学校にきてすぐに寝はじめ、1時間目は最初から最後まで寝て過ごした。
 亮はそんな大志を見るのが珍しく、一応は気を使って起こさないでいたが、全く起きる気配がないので徐々に不満になってきた。
 仙子との人格交代が発覚した昨日の今日なのである。ちょっとは事情を聞きにきてくれてもよさそうなものである。
 尭己から昨日の夜すでに色々聞かされているのだが、亮はそれを知らないのである。
 大志の横にやってきて、耳元に声をかける。
「た〜い〜し〜」
「…………」
 無反応である。
 亮は口を尖らせ、今度はもう少し大きな声を出した。
「大志〜っ!」
「…………ぐぅ」
 少しだけ反応したが、目を開けるにはいたらない。
「…………むっ」
 亮は丸顔の頬を膨らませて不満を表した。
 近場にいる宮野に声をかける。
「なーなー、宮野、大志が起きないんだよ」
「ん〜?」
 宮野は石巻と一緒にそばまでくると、無遠慮に大志の寝顔をじろじろのぞきこんだ。
 寝たふりならこれで起きるはずである。しかし大志は瞼を閉じたままである。
 こうしてみると、わりと睫毛が長くて可愛い顔をしている。普段の無愛想がもったいない。
 宮野は腕を組み、いつになく慈愛のこもった目で大志を見る。が、目の奥ではなにかたくらんでいた。
「そっとしといてやれ、リョウリョウ。きっと予習復習で疲れてるんだ」
「なんだかんだ言って真面目だからな、タイタイは」
 石巻が同調してうなずくと、宮野が調子に乗る。
「そうそう。真面目で誠実ないい男だぞ?」
「金持ちで家柄もよく頼り甲斐もあって容姿も端麗だ」
「すばらしい!」
 ぱちんと手を叩いて誉め称える。
 騒ぎ出した二人に、亮はあきれた苦笑いを送った。
「ハラショー、タイタイ!」
「ナイスガイ、タイタイ!」
「…………」
 不機嫌な顔で大志がむくりと身を起こす。
「あ、起きた……」
 さすがにすぐ横ではしゃがれて目が覚めたらしい。
「白々しいんだよ、お前らは……」
 まぶしそうにまばたきしながら目を細めて二人をにらむ。
 起こすために故意に騒いだのはばれている。
 宮野がわざとらしく驚いてみせた。
「おおっ、タイタイの復活だっ」
「よっ。神々しいぞ、タイタイ!」
「えーい、うるさい。俺のそばで騒ぐな」
「へいへーい」
 と、すんなり引き下がる。
 亮に目をやり、大志に目を戻した。
「リョウリョウが用があるってさ」
「……ん?」
「大志大志」
 亮が神妙な顔をしていた。
「…………」
 寝ぼけた目でじっと見る。
 眉間にしわを寄せ、複雑な表情になって口をゆがめた。
 とりあえず亮の用件を聞くことにして、促すようにあごをしゃくる。
「なんだよ」
「なんだよじゃねーよ、大変なんだよ」
 亮がぶすっとして頬を膨らませる。
「なにが?」
 あくびしつつ訊ねると、亮は少し深刻な顔で声をひそめた。
「せんちゃんが学校来てない」
「…………」
 大志はあくびを途中で止め、真偽を問う目で亮を見る。
「ケータイもつながらない」
「…………」
 大志は一瞬沈黙して思考し、すぐに原因に思い当たった。
「閉じ込められてるな、親父さんに」
 厳格な芹沢の顔を思い出す。
 右腕のこともあり、なんだかんだ言っても仙子を心配してのことだろう。
「ついでに尭己も来てないし、葵さんも……」
「…………」
 亮は困惑した表情だったが、尭己に関して大志は少し首を傾げただけだった。
「尭己は……ただの遅刻じゃないのか? いつも通り」
「ケータイもつながらないぜ?」
「……昨日は夜遅くまで調べものしてたからな」
 大志が帰った後も残りの本を調べていたはずである。普段から大幅に遅刻している尭己が、普通の時間に登校するわけがない。
 たぶん今頃は疲れて眠っているのだろう。
「そうなのか?」
「ああ……」
 うなずきながら、じっと亮を観察してしまう。
 尭己の話題で、昨日の夜聞いたことを思い出したのだ。
 夜食の買出しから尭己の部屋へ帰り、10年前の所業を問い詰めた。あっさりと白状したその内容にかなり衝撃を受けてしまった。
 ちなみに、尭己の言う通りコンビニの店長は確かにかわいかったが、大志の性格上なれなれしく会話できるはずもなく、おにぎりとお茶を買っただけである。
 大志になんともいえない目で見つめられ、亮は不審げに首を傾げた。
「ん?」
「…………」
 大志は無言である。亮は眉をひそめた。
「なんだよ、俺の顔に何かついてる?」
「…………いや」
 とりあえず否定はしたがなにか言いたそうな顔で、重苦しくため息をつく。
「……はぁ……」
「なんだよ〜? 人の顔見てため息つくなんて、失礼だろ?」
 不愉快を表情に表すと、背後から宮野が近づいてきて含み笑いをもらした。
「ふっふっふ。違うぞ、リョウリョウ」
「はあ?」
「とうとう目覚めたのだね、タイタイくん。リョウリョウへの恋心に」
「…………」
 大志が頬を引きつらせ、亮が横目でジトリと宮野をにらむ。
「キャ〜、タイタイ〜」
 宮野の横で石巻が嬉しそうに身悶えた。
「イヤーン、禁断! 燃えるっ、燃えるぞ、ミヤっ」
 いつも通りの石巻の応援でやはり調子に乗り、宮野はえらそうに腰に手を当てる。
「はっはっは。やはりこうなってしまったか、タイタイっ」
「…………」
 びしっと指差す宮野にバカバカしげにちらりと視線をやり、大志は肩をすくめた。
「はぁ……。平和でいいよな、お前らは」
「…………」
 そっけない大志の反応に、宮野は大げさに動揺してみせた。
「な、なにぃっ。タイタイが怒らないぞ、マキマキ!」
「どうなってるんだ、ミヤっ」
 二人で顔を見合わせ、あたふたと取り乱してみせる。
 そして宮野が目を輝かせ、思いついたように手を打ってからいたずらっぽく含み笑う。
「もしかして大人になったんじゃね〜の?」
「ほう、なるほど」
 二人でおもしろそうに大志をうかがう。
 大志は頬杖をつき、それにもあきれた視線を送った。
「お前らも成長しろよ」
 冷たく言われ、二人ともわざとらしくフンと顔をそむける。
「いやだね。僕たちは永遠の子供さっ」
「ネバーランドで遊ぶんだっ」
「れつごー、ウェンディ!」
「待って、ティンカーベル!」
「……え〜、ティンカーベル〜? 俺、パンの方がいい〜」
 石巻の呼びかけに宮野は不満げに顔をしかめた。
 亮があきれて肩をすくめる。
「パンって……」
「ピーターパンだろ……」
 冷たく訂正し、大志はまた机に突っ伏してしまった。



 芹沢家の書斎――……。
 椅子に腰掛けた芹沢のデスクの前に紅が立っていた。
 持ってきたファイルを芹沢に見えるように机の上に置いて、最初のページを開ける。
「…………」
 数枚の写真がクリップで留められており、その一番上は亮の顔である。
 紅がそれをはずしてファイルの横に並べる。中年の夫婦と二人の息子、家族写真もある。
 ファイルの中はこまごまとした情報がびっしりと載っていた。
「これが彼の家族構成と、これまでの調査報告です」
「……ふむ。なるほど……」
 芹沢は一通り目を通し、あごに手を当てて考えるしぐさをする。
 写真を手にとり、じっと見つめる。
 そっくりな顔の弟も写っていたが、これといってピンとこない。
 両親ともに見覚えもなく、なにが引っかかるのかはやはりよく分からなかった。
 ただ、亮を見たときなにか気になったのだ。
 紅が補足的に説明をよこした。
「頭脳明晰で品行方正、周りをひきつける魅力も兼ね備えています。両親の経歴にも問題ありませんが、幼いころに一度家出し、捜索願が出されています」
「ほう…」
 顔をあげ、続きを促す。
 紅は軽くうなずき、少し不審げに首をかしげながら続ける。
「翌日に発見されたのですが、その発見された場所というのが……」
「場所が?」
「――芹沢家の犬小屋だったそうです」
「…………」
 さすがに芹沢も不可解に眉をひそめた。
「この家の犬小屋か?」
「そうです。庭師に確認したところ、10年くらい前に確かにそういうことがあったそうです」
「初耳だな」
「犬小屋に犬たちと丸まって寝ていたのを発見したとのことでした」
「そんな報告を受けた覚えはないが……」
 思い出すように考えてみるが、芹沢の記憶の中にその事柄はない。
 一応その日その日の出来事は執事に報告させるようにしてある。些細なことでも記憶している芹沢が覚えていないということは、その報告はなかったということになる。
「なんでも仙子さんが緊急入院した夜のことで、すぐに家に返して大事にはいたらなかったということです」
「……なるほど」
 仙子の大事に他のことは後回しにされたのだ。
 重要なことでもなかったのでそれきり報告もなかったのだろうと納得する。
「しかし、あの犬たちは外部の者には子供だろうが襲いかかるのだが……」
「そうなんです。私もそれは不思議に思ったのですが原因はわかりません」
 亮がこの家の犬小屋に入り込んだというのはかなり不自然なことである。
 芹沢が変な顔をすると、紅もうなずいた。
「ふむ……」
「そして、もう一人の方ですが……」
「ん、ああ。あの高岡尭己とか言う男か……。あれは本人の性質以上に、なにか……――手に負えない」
 芹沢の予感が告げているのである。
「……はい」
 その鋭い感覚に紅は密かに驚きつつ、無表情のままファイルのページをめくった。
 昨日命じられ、調べさせた内容を紅は先に読んでいる。
 その内容はとても信じがたいものだった。紅自身尭己に会ったことはないが、調査内容だけでかなりの不信感を抱いた。
 写真でみる限りはへらへらした不良学生でしかない。本人と少し向かい合っただけでそれを感じ取ったとなると、芹沢の眼力は恐ろしいほど的確である。
「これがその報告内容です」
「――ホーリー・シャムロック・タカキ=タカオカ……?」
「彼の祖母が北欧の出身になります。こちらを……」
 紅は亮の資料をまとめて重ね、尭己のページにはさんであった写真を横に並べる。
 尭己の写真と、外国の風景である。崖の上に城と言っていい程の大きな屋敷が写っている。古い田舎町のようだった。
 気品のある外国の老婦人と、ひねくれた学者風の男の写真もあった。後者はかなり古い写真である。
「…………」
 芹沢は黙ってそれを見て、ファイルの中身を目で辿っていく。紅は無言で反応を待った。
 じっくりとそれを読み、芹沢は途中で何度かその秀麗な眉をひそめる。
 いぶかしげに何度か読み戻り、理解不能を顔に表す。
「……なるほど」
 嘆息交じりに呟き、老婦人の写真を一番上へ置く。
 ちらりと紅に目をやった。
「で、噂の真偽は?」
 訊かれたが、紅は困惑しきった顔で小さく首を振った。
 牛に変身するだの、カラスの生き血をすするだのがまさか真実とは思えない。真面目に聞かれても困ってしまう。
「はっきりしたことは分かりませんでしたが、彼の祖母は……そちらの方面ではかなり有力な人物のようです」
 古い精霊信仰のある土地に住んでいて、人々からなにかと頼られていた。
 紅はちらりと老婦人の写真を見た。微笑む表情は穏やかだが、どこか哀しそうな陰がある。
「小さいころ周りから畏れられていたのもそれなりの根拠があってのことかと……」
「やれやれ……。仙子も物好きな……」
 芹沢が憂鬱なため息をつく。
「仙子さんは、彼についてあまり知らないのだと思います」
「そうかね?」
「このような俗な噂が仙子さんの耳に入る機会は少ないので」
 くだらない噂話を芹沢家の人間にする者は少ない。特に、まだ入学してそれほど月日がたっていないのである。
 それに仙子はどこか近づきがたい雰囲気をもっている。周りから少し距離を置かれているだろうことは容易に想像がつく。
「深田家の大志くんと幼いころからの知り合いなので、少々信用してしまっているところがあるだけでしょう」
 仙子が昔大志になついていたことを覚えている紅はそう判断していた。
 実際は仙子が大志のことを全く忘れていたとは少しも思っていなかったのだ。
「それならいいが……」
「…………」
「どうした?」
 紅がほんの少しだけ疑念を持って沈黙すると、すかさず芹沢が訊いてきた。
「あ、いえ……。あの学校の生徒なら、藤谷さんに調べてもらった方が……」
「葵くんか……」
 なにかにつけて紅は葵を目の敵にする。
 芹沢はフッと目もとをゆるませた。
「各務家は昔から芹沢家に仕えてくれている。葵くんとは信頼の深さが違うのだよ、紅くん」
 そう言って、釘をさすように目をすがめさせる。
 紅は内心ギクリとしたが、顔に出す前に目を伏せた。
「……ありがとうございます」
 芹沢は、紅がなにかを隠していることに気付いていた。
 調査員が持ってきた情報以外のことである。紅は目を伏せたまま芹沢の視線をやり過ごす。
 ――ワンワン…!
 外で吠える犬たちの声に芹沢が眉をひそめる。
「――外が騒がしいな……」
「侵入者でしょうか? 見てきます」
 しっかり調教してある犬たちである。不審人物があらわれたのなら追い払わなくてはならない。
 紅にとってはいいタイミングである。
「――失礼します」
 一礼し、書斎を辞した。
「…………」
 芹沢は椅子に深くもたれると、紅に対して不満のため息をついた。
 仙子同様少し甘やかしすぎたかもしれない。



「う〜、ワンワン」
 芹沢家の広大な敷地を囲む鉄柵の中から、犬が2匹こちらを見てうなっている。
「吠えるなよ〜」
 亮は困った顔で口をゆがめ、大志はぽりぽりと頬をかいた。
「そういえば犬がいるんだったな」
「大志〜、先に言ってくれよ、そんなこと。分かってればエサでも用意してきたのに〜っ」
 不満を訴えるが、大志は悪びれずに肩をすくめた。
「芹沢家の人間にしか尻尾振らないらしいからエサを用意したところでムダだろうけど」
「だ〜っ、だったらどーしろって言うんだ。誰かきちゃったらどーすんだよ」
 せっかく授業を抜け出して芹沢家までやってきたのに、これでは仙子に会えない。
 仙子が家に閉じ込められているという大志の説を聞いて、うずうずして落ち着かなくなってしまったのである。連絡をとろうにも携帯電話も取り上げられているのではどうしようもない。
 2時間目が終わっても尭己は学校に来なくて、電話も通じない。
 大志の態度もどうも妙だった。亮を見てはため息をつき、なにを訊いてもぶすっとしてなにも答えない。
 昨日尭己になにか聞いたらしいことは分かったが、内容はやっぱり言ってくれなかった。
 しかたないので、3時間目をサボって尭己の家に行くと言い出すと、大志もついてくると言った。
 そして大志と二人で尭己の家へ行ったのだが、鍵が開いていたが中には誰もいなかった。部屋のごちゃごちゃ加減は亮が見たときよりも増していた。
 そのあと、大志に自転車をこがせ、芹沢家にやってきたのだ。
 わりと犬好きの亮だが、これは手なずけられそうにない。さすが芹沢家と言うべきか、そのへんの犬とは格が違う。不審者を威圧する迫力満点である。
 どうしたものかと大志を見ると、上の方を見上げて思案顔を作っていた。
「しかたない、帰ろう」
「え……」
 がっくりきてしまう。亮にも策はなかったが、大志も同様だったらしい。
 しかし帰るというのには同意しかねる。不満げな眼差しを送るが、大志は首を振った。
「ここで見つかったら余計に状況が悪いだろ?」
「それはそうだけど……」
 うなっている犬にちらりと目を向けると、また激しく吠え出した。
 2匹ともおとなしくなってくれそうにない。こうしているうちに、誰かが様子を見にきそうである。
 しぶしぶながら帰るしかないと思ったとき、屋敷の角からまた犬が走って来た。
「わんわん」
「わっ、また出てきたっ」
 他の2匹よりひとまわり大きい。
 なぜか嬉しそうに尻尾を振っている。
「わんわんわんっ」
「…………」
 亮はその犬を見て、妙な感覚を覚えた。
「くぅ〜んくぅ〜ん」
 走り寄ってきた犬が、亮の前まできて必死な感じで柵から鼻をつき出す。亮になにかを訴えようとしているかのようである。
 亮のほうも、不思議に胸が騒いだ。
 仙子の家にきたのは初めてで、犬がいることすら知らなかったというのに、なつかしいような気がする。
「クッキー……?」
 自然と犬の名前が分かった。
 手を伸ばすと、鼻先を押し付けてくる。
「お、おい危ないぞ、亮」
 焦る大志に耳を貸さず、亮は犬に近づいた。
 柵越しにその頭をなで、顔を近づける。
「あはは。やめろよ、クッキー」
 べろべろと顔を舐められ、亮が楽しげに笑う。
「くーんくーん」
 それを大志が唖然として見る。
「芹沢家の人間にしかなつかないって……」
「んー? わかんないけど昔から仲良かったような気がするんだよ、クッキーとは。なんでだろうな?」
「…………」
 自分でもよく分からないが、なぜか亮は昔からこの犬を知っている。あとの2匹にはなにも感じないのに不思議である。
 大志は複雑な顔でじゃれ合う亮とクッキーを見ていた。
「わ、わんわん」
 混乱したようすで、クッキーの後ろにいた2匹がまた吠えようとした。
 クッキーはそれをジロリと牽制するように振り返る。
「わうっ」
「ウー……」
 クッキーに一喝されてしょげたようにうなだれ、吠えるのをやめた犬たちを大志が驚いた顔で見る。
「おとなしくなった……?」
 亮はクッキーの首をなでながら得意げに頬擦りした。
「クッキーは古参だからリーダーなんだ」
 なぜかそれもきっぱりと言いきれる。
「ふーん…」
 大志があいまいにうなずくと、亮はすくっと立ち上がる。
「とにかく急ごうぜ、大志。もうすぐ人がくるぞ」
「あ、ああ」
「またな、クッキー」
「くーん……」
 残る2匹を後ろに従え、その場で亮が行ってしまうのを待つ様子である。
「…………」
 大志は、犬に手を振った亮をなんとも言えない顔で見つめる。
 亮の様子が少し変わっていた。
 左右を確認し、確信した感じで右の方向をさす。
「あっちの門はいつも開いてるんだ。あっちから入るぞ、大志」
「え……、ああ?」


「あそこの裏庭の戸口から入れば誰にも見つからないで部屋に行けるんだ」
「おう」
 門を入って、屋敷から死角になる道を通って裏庭にやってくると、亮が小さな出入り口を指差して大志を促す。
 この調子で二人は、亮の言う通りに進み次々と芹沢家をすり抜けていた。
 誰にも見つからず密かに屋敷内に入り込み、大志は困惑した目で亮を見る。
「……詳しいな」
「え、うん? なんでだろ。なんか知ってるような気がするんだよ」
「…………」
 階段の下へくると、大志を手招きして呼ぶ。
「大志、こっちこっち」
「…………」
「この上は客用の寝室になってる。そこの窓からベランダに出たら人に見つからないで向こうの棟まで行ける」
「…………」
 亮の言葉は正しかった。
 隣の棟までやってくると、亮の表情は硬くなっていた。
「こっち……」
「…………」
 大志は無言で従い、複雑に入り組んだ芹沢家を迷うことなく奥へ進む。
「ここは――えーと、こっちだ」
「…………」
 亮は自分でもなぜ分かるのかが分からない。
 確かめるように予想して、それが当たっていることに驚く。そのくり返しである。
 3階に上がり、長い直進の廊下にたどり着く。
 一番奥に白い扉が見えた。
 亮が神妙な顔でそこをじっと見つめた。
 そこへ向かいながら、深刻そうに呟く。
「あのつきあたりが、俺の部屋――」
「――亮……?」
 そのセリフに大志が怪訝な目を向ける。
「…………なんでだろ?」
 亮は隣を歩く大志を見上げ、困ったように微笑んだ。
「俺、昔この家に住んでたことがあるような気がする……」
「…………」
 大志は黙って亮を見つめ返す。
 昨日の夜、尭己から聞いた10年前の出来事が脳裏をよぎる。
 まさかと思ったが、今の亮のようすを見ているとそれが本当かもしれないと思えてくる。
 そのとき、亮の足が急に止まった。
 くらっとその場に崩れ落ちる。
「亮…!」
 大志の驚いた声を聞きながら、意識が遠のいていった。



「――コウくん」
 幼い仙子が紅を呼ぶ。
 隣に座った仙子に、紅はゆっくりと穏やかな微笑を向けた。
「どうしたの、せんちゃん?」
 仙子が嬉しそうな顔を向ける。
「これね、大志くんにもらったの」
 手の中にあるくすんだ色のブロンズ像を紅に見せた。
「めがみぞうなんだって。大事なものだけどって……」
 にこりと微笑まれ、紅は同じ笑顔を返す。
「ふーん。きれいだね」
「うん……」
 仙子は女神像を抱きかかえ、幸せそうに目を細める。
「……大事にしようね?」
 そう言った紅に目を向け、こくりとうなずく。
「…うん」
 窓からそよ風が入り込み、白いカーテンを揺らした。



 ゴンゴン――……
 部屋のドアがノックされ、仙子は部屋の中央にあるテーブルセットの椅子に座ったまま振り向いた。
「ん? 各務さんかしら?」
 それにしては少し優雅さに欠ける音である。ノックをするにも気を遣う紅とは少し違うかもしれない。
「はーい?」
 仙子の返事を聞き、ノブがまわされる。
 ガチャと慎重な感じでドアが開き、思いがけない人物が姿を現した。
「…………」
「た、大志くん? わ、どうしたの、川名くん」
 意識のない亮を小脇に抱えるようにして、大志が決まり悪そうな顔で立っていた。勝手に忍び込んできたからだが、亮の状態が状態なので仙子は進入経路を訊いてこなかった。
 慌てて駆け寄ってくる。
「ここで倒れた」
「大丈夫?」
「と思うけど」
 いきなりのことなので大志も分からない。
 仙子は扉を大きく開き、亮を抱えた大志を招き入れる。
「とにかく早く入ってよ、誰かに見つからないうちに」
「…………」
 やはり密かに忍び込んだことはばれていたようである。
「やあ、いらっしゃい、大志くん」
 尭己の声が聞こえて思わず眉をひそめる。
 声のしたほうを見ると、ベッドの下から尭己がぬっと顔を出した。
 突然の訪問者に慌てて隠れたが、それが大志だと分かり出てきたのである。
「――なんでお前が……」
「突然窓から入ってきたのよ、びっくりしたわ」
「窓から……?」
 思いっきり眉間にしわを寄せる。ここは3階なのである。しかも芹沢家の柵は深田家の塀よりも高く、しかも番犬が3匹もいるのだ。
 どうやって入ったのか謎である。
「そーよ、普通じゃないわよ、ホント」
 仙子が肩をすくめ、尭己はへらへら笑いながらベッドから這い出て立ち上がる。
「正面から訪ねていったんだけどさー、庭師のおっさんに門前払いされたからしかたねーじゃん」
「追い払うように言ってあるのよ、きっと」
「フン」
 不審な顔をした大志には目をくれず、尭己は抱えられた意識のない亮に顔を近づけた。
 ニヤニヤしながら両手で顔をはさんで上向ける。
「亮くーん、しっかりしろ〜」
「触るな、バカ」
 亮の体ごと振りまわすように尭己の手を乱暴に払いのける。
「なんだよ、お前のもんじゃねーだろ?」
「…………」
 その言い方にムスッときたが、反論する前に亮の眉がしかめられたのに気付く。
「う、うーん……」
 うっすら目を開け、ぱちぱちとまばたきする。
「あれ、俺……?」
 ぼんやりと見回す。豪華な部屋である。
「大丈夫か、亮?」
 亮を肩につかまらせたまま顔をのぞきこむと、はっとした亮が慌てたように見上げてきた。
「わっ、た、たい、大志…っ」
 かっと顔が紅潮した。
「は、離せ、大丈夫だからっ」
 焦ったように大志から離れ、頭を振ってめまいを払う。
「……ん?」
 亮のその様子を見て、尭己は思わず眉をひそめる。
 それに気付き、亮がパチクリと目をしばたかせた。
「た、尭己。なんでお前が……」
「窓から侵入したらしいぞ」
「そ、そうなんだ……」
 大志が答えると、尭己は得意げに笑い、仙子は少し迷惑そうにしながら肩をすくめた。
 亮は困ったように口を歪める。どうも大志の顔が見れない。
 仙子も亮の様子を少し変に思ったが、とりあえず部屋の鍵を内側からかけた。
「とにかく座ってよ。お茶でもいれるわ」
 戸棚から紅茶の缶を取り出し、3人をテーブルにつかせた。


「ふぅ…、うまいな、芹沢のいれてくれる茶は」
 紅茶を一口含み、尭己が感想を言った。
 丸いテーブルの隣には大志が座り、その隣に亮がいる。
 向かいに仙子が腰をおろし、緑の紅茶缶の表を尭己に見えるように置いた。
「高級茶葉使ってんのよ」
「いやいや、お前の淹れかたがいいんだよ、うん」
 仙子のそっけない返事にめげず、というより気にもせずにニコニコと仙子のご機嫌をとる。
「……なんなのかしら、気持ち悪いわね」
 ジトリと横目でにらみ、自分で淹れた紅茶に口をつけるが、やはり紅がいれてくれたもののほうがおいしい。
 亮がきょろきょろと部屋中を見回していた。
 大志の部屋も広かったが、仙子の部屋はその倍はありそうである。
 天井にはシャンデリア、出窓にはひらひらの白いカーテン、調度品はどれもぴかぴかに磨かれており、ここに人が住んでいるというのが信じられないくらいである。
 仙子の性格とずれた趣味のような気がしたが、それは黙っておいた。
「宮野と石巻つれてきたら大喜びだよな、この部屋」
「やめれ、亮……」
 亮の呟きに、想像しただけでうんざりして大志が首を横に振る。
「う、うん……、分かってるけど」
「…………」
 大志にたしなめられ、亮の顔が思いがけず赤くなる。自覚してはっとし、亮はごまかすようにわざと不機嫌な顔を作って紅茶に口をつけた。
 それを見逃さず、尭己は横目でうかがうように亮を見やる。
「なに大志に対して緊張してるんだ、亮くん」
「え、べ、別に緊張なんか……」
 あからさまな態度である。
 大志のほうに目を向けることもできない状態で、明らかに緊張している。
 さすがに大志も気付き、複雑な目で尭己をにらむ。なにもかも尭己のせいである。
 しかし尭己はおもしろくなさそうにフンと鼻息をついた。
「…………ま、いいけど」
 尭己が不機嫌に頬杖をつき、亮も大志も気まずそうに黙った。
 室内に沈黙が流れる。
「ところで……」
 仙子は首をかしげて亮を見つつ、素直な疑問を口にした。
「あんたたちはどーやって入ってきたの? 忍び込もうったってうちのワンコたち、かなり警戒が厳しいと思うけど」
「それが……」
 大志が進入の詳細を説明しようと口を開き、ちらりと亮に目をやった。
 亮は驚いた顔で尭己の横の椅子に目をとめていた。その上に置かれた物体に。
「――あれ、尭己、それ……?」
「ん?」
「……あ」
 大志も亮の視線を追い、尭己のそばにあるものに気付く。
 仙子がきょとんとして首を傾げた。
「なに? あんたたちもこの女神像がほしいの?」
 さらりと言われ、大志は思わず眉をひそめる。
「……おい」
 仙子から大志に向かってそのセリフは、本来なら言われないはずである。
 屈折の女神――。
 ブロンズの女神像。10年前、深田家旧宅の書斎のキャビネットに入っていたもの。
 幼い仙子が気に入り、大志が手渡した。
「それは俺が……」
「待て待て、大志」
 大志が仙子に言おうとしたことを尭己がさえぎる。
「今の芹沢に言ってもわからねーぞ」
「そ、そうか…」
 意味深な尭己の発言に制され、大志が思い出したようにうなずく。
「なにが?」
 二人のやりとりに仙子がいぶかしげな顔を向けると、尭己は楽しげに口角をあげた。
「その女神像、小さい頃大志が芹沢にやったものなんだよ」
「へー、そうだった?」
 仙子にまったく興味なさそうに返事され、分かってはいたが、大志はなんとなくがっくりと肩を落とした。
「お、俺、それに見覚えが……」
 亮がおずおずとそんなことを言いだす。
「そうだろうな」
 当然のようにうなずいてそう言った尭己を仙子がいぶかしげに眉をひそめて見る。
「なんで? 大志くんが私にくれたものをどうして川名くんが知ってるわけ? 私は覚えてないのに」
「大志が幼き日の芹沢仙子にやったものだからだよ」
 尭己の言葉の意味を理解しかね、仙子はわけが分からず首をかしげる。その横で、亮は驚いた顔で尭己を見ていた。
 なんで知っているんだといいたげな顔である。
 仙子だけが分かっていない。
 亮が尭己を気にしながら、深刻な顔で仙子を見つめる。
「実は……思い出したんだよ、俺」
「なにを?」
 平然と亮を見つめ返して眉をひそめる。
「…………」
 大志がちらりと尭己に目をやる。尭己は黙って亮の言葉を待っていた。
 亮は軽く深呼吸し、まっすぐに仙子に視線を向けるとおもむろに口を開いた。
「小さいころに入れ替わってそのまま俺は川名亮として育ったけど、本当はせんちゃんが本物の川名亮なんだよ」
「……へ?」
 一瞬間をおき、仙子が間抜けな声を発する。
 口を半開きにぽかんとし、亮の顔を凝視した。
「だから俺が、本当の芹沢仙子なんだ」
「え、ま、待ってよ。なに?」
 仙子は混乱したようにこめかみを押さえ、頭の中で亮の発言を反芻する。
 小さい頃に入れ替わってそのまま。
 本当は仙子が本物の川名亮で、亮が本物の芹沢仙子。
 つまり、このところ起こっていた人格交代をした状態が、本当。本物。本来の姿。
 仙子は頭を抱えたまま亮をにらんだ。
「……本気で言ってるの?」
「俺とせんちゃんのこのところの人格交替は、実際のところ元に戻ろうとしてるだけだったんだ」
 元というのは、亮が仙子になり仙子が亮になった状態のことである。
「まさか……」
 そんなことは信じられない。
 眉間にしわを寄せたまま、腕を組んで黙っている尭己に顔を向けた。
「どうなのよ、高岡くん」
 さっき、すべて知っているような口ぶりだった。
 尭己はちらりと亮に視線を投げ、仙子のきつい目を見てちょっとひるむ。
 事実を知れば怒るだろうと思ったが、ここまできて言わないわけにもいかない。
「うむ、実は……」
 しかたなく、重い口を開いた。
「俺のばーさんは北欧の古い血筋で、昔から巫女さんみたいなことをやってたんだよ。お払いとかおまじないとかそーゆーのを」
「え、魔女なんだろ?」
 亮からすっぱりそう言われ、思わず尭己の顔が引きつる。ギロリと大志をにらんだ。
「てめーはっ、どーゆー説明したんだよ、コラ」
「……実際、変な術使うだろーが」
「ものには言い方があるだろっ」
「うっせーな、どーでもいいだろ、そんなもん」
「亮くんに変な風に思われてるじゃねーかっ。どーしてくれんだよ、このバーカがっ」
「事実を言ってなにが悪い」
「テメー……、噂の発信源、全部お前じゃないだろーな?」
 疑いの目を向けられ、カチンときた大志が椅子をたつ。
「俺はもみ消してやってんだぜ」
「手で消しながらお口でつけてんじゃねーのか?」
 尭己もガタンと椅子を立ち、肩をぶつけるほどの距離でにらみ合う。
「えーい、やめなさい、二人とも」
 面倒くさそうに仙子が口だけ仲裁に入る。
 いらついた様子で眉をしかめた。
「あんたの家系が胡散臭いことは分かったから、早く続けてよ」
「胡散臭いって……」
 尭己がちょっと傷ついた顔で口元をひくつかせた。
 フンと鼻息を吐き、仙子が目だけで二人を座らせる。
 おとなしく大志が腰をおろし、しかたなく尭己も不満ながら椅子に座った。
 神経を落ち着かせようと深呼吸して、ちらりと仙子に目をやった。
 すでに相当むかむかきているようで、ギロリとにらまれてしまう。この先を言うのが少し不安になってきたが、ここは腹をくくるしかない。
 軽く天井を仰いで、話を続ける。
「俺は素質があるとかで小さいころから色々ばーさんから伝授してもらってて、昔深緑公園でよく術の練習をしてたことがあるんだけど……」
「え……?」
 仙子は軽く目を見開き、凄みを利かせてゆっくりと尭己をにらみつけた。
「あんたの練習に巻き込まれたとか言うんじゃないでしょうね? 怒るわよ?」
「いや、まあ……」
 仙子の目に殺気が宿ったのを見逃さず、尭己は笑顔を凍らせ逃げ腰で椅子ごと少し後ずさりする。
「そうなのか…っ?」
 逆の方向から、亮にショックを受けた様子で問いかけられる。
 尭己は言葉につまり、助けを求めて大志にすがりつく。
「ち、違うって。なあ、大志?」
「似たようなもんかも知れねーけど……」
「……味方しろ、コラ」
 大志に冷たく呟かれ、尭己は亮と仙子からの責めるような視線を容赦なく浴びた。
「…………」
 亮も仙子も疑惑の眼差しを送ってくる。
「と、とにかく」
 コホンと咳払いし、どう言ったものか考える。なるべくやんわり聞いてもらいたいが、仙子の目はどう見ても狩猟者っぽい。
「えーとだね、その昔俺は深緑公園で死にかけた一匹の子猫ちゃんを発見した」
「子猫ちゃん?」
「芹沢仙子っていう……」
 亮に訊かれ、ごまかすような笑みを作ってへらへら答えると、仙子が脱力してがっくりと肩を落とした。
「分かりやすく話しなさいよ……」
「いいじゃん」
「いいけど……」
 仙子は険悪な目をやめて椅子に深くもたれた。
 少し考える素振りをし、軽くうなずく。
「深緑公園で死にかけたことはあったらしいわ、実際」
 仙子は覚えていなかったが、昨日紅から聞いたので間違いない。
 尭己はフッと遠い目をしてあらぬ方向を見た。
「そう。その死にかけの子猫ちゃんの近くで可憐なお花が咲いてて、空から天の使いが子猫ちゃんを迎えに来てた」
「お花って……」
「亮くん。――まあ、そのときは名前も知らねーんだけどな」
 へらへら答えつつも、本当のところ多少は罪悪感がある。
「天の使いってのは……」
「いわゆるお迎えってやつだよ」
「死神?」
「冥府の使いだ。死んだ魂を冥界まで案内する役」
「…………」
 仙子は難解な顔をしたが、このへんは納得してもらうしかない。無視して続ける。
「俺はそのころ力の成長期で、何もかも支配化においてるような錯覚を起こしてたわけだ。この世のすべてを思うままにできると思ってた」
 それが態度に表れていたために、ろくでもない噂をたてられて人々から恐れられるようになっていた。そのときは気にもしなかったが。
「とにかく、天の理さえも自分の力で曲げられると思いあがってたし、子猫ちゃんの顔が気に入ったし、いっちょ人助けでもしてみるかと思ってだ、御使いが到着する前に子猫ちゃんを隠して混乱させてやろうと……、軽い気持ちで子猫ちゃんを迷子にした。お花と交換したわけだ」
「ということはつまり……」
 分かりにくい表現なので混乱して仙子が要約を求める。
「芹沢と亮くんの魂ってやつを入れ替えたわけだ」
「…………」
 仙子と亮は唖然とし、固まった表情のまま尭己を見つめる。
「元に戻らないことがあるとは思ってなかったんだよ」
 開き直ったようないいわけがましい言い方をし、口をゆがめた。
「不自然な交替は肉体に負担がかかるんだ。降霊は体力が要るのと一緒な理論で、本人以外の魂が入ると肉体が非常に疲れる。子供だったし、絶えきれなくなってすぐ戻ると思ってた。それよりも、そうなったとき御使いに見つかったら見つかったでそれは死ぬ運命だから俺のせいじゃね〜や、みたいな感じに思ってて…」
 そこで一旦ため息をつき、決まり悪く頬をかく。
「だけど、意外に芹沢と亮くんの波長が合ってたんだよ」
「波長……」
 仙子がまた難しい顔で呟く。
 尭己はうなずいて見せ、亮のほうを向く。
「――亮くん、誕生日は?」
「え、12月1日だけど……」
 急な質問に首を傾げつつ答えると、仙子がパチクリとまばたきした。
「あら、私と一緒……て、そういうこと?」
「そう。二人とも12月1日の生まれで、生まれた病院も一緒」
「采果病院?」
「そうよ」
「生まれた場所と時間が同じ者は運命上の双子だ」
 それを聞き、仙子は右手の怪我をみた。
 この怪我をしたとき、尭己は確か双子には不思議なつながりがあるというようなことを言っていた。
「波長が近すぎてたぶん、御使いも気付かなかったんだろうけど、おかげで未熟だった俺の不完全な術もかかってしまったわけだ」
「それで入れ替わったまま……」
 亮と仙子はかなり気が滅入った感じで目をつぶった。
 実感はないが、相当なショックである。
 昨日これを聞かされた大志も似たような心境を味わったが、自分自身のこととなるとまた格別に衝撃的だろうと二人を哀れんだ。
 心情は察するに余りある。
 二人とも沈痛な面持ちで黙り込み、しばらくして仙子が憂鬱そうに尭己をにらんだ。
「術が不完全だったからここにきて破綻してきてるわけ?」
「かもしれない。本当は5歳のガキが使えるような術じゃないんだよ、あんなの」
「そうなの?」
「たぶん」
「…………」
 仙子が黙ると、今度は亮が深刻な顔で口を開く。
「10年たって元に戻りかけてるなんて、なんでまた……」
「不自然なものを矯正しようとする自然の浄化作用の一環だろうな。ここらあたりが限界なんだろ。プレートが沈み込んで限界に達すると、元に戻ろうとして地震が起こるのと一緒の理論で」
「なんとなく分かったような分からないような……」
 10年前のひずみが出てきているのだ。
 だんだんと積み重なったものが、無理がたたって崩れかけている。
 仙子は冷めた紅茶を口に含み、喉を通して嘆息した。
 表情は険しいというより困惑している。
「10年たって突然元に戻っても困るわよ。いまさら……」
 他人になり代わってなど生きていけない。ましてや亮には絶対になりたくない。波長が似ているといわれても、性質が違いすぎる。
「運命は突然やってくるもんだ」
 尭己が肩を竦めて、他人事のように言う。
「あんたのせいでしょーが」
 ギロリとにらみつけたが、持続する元気もない。
 ため息をついて肩を落とした。
「…………」
 沈黙が室内に満ちる。重苦しい空気である。
 さすがに尭己もへらへらしていられなくなり、困った顔で大志に目を向けた。
 なんとかこの場を和ませてもらいたいが、大志にそれができるはずもない。する義務もない。
「無責任」
 冷たく言葉と目線を投げられ、頬を引きつらせた。
 仙子が大志の言葉にはっとして顔をあげた。
「そうよ、あんたに責任とってもらえばいいんだわ」
 そう言われ、尭己はいつになく真面目な顔でふうとため息をついた。
「分かったよ、俺が責任を持って亮くんな芹沢の婿になってやる」
 仙子は頭を抱えてこめかみを押さえる。
「……だ〜れが、それで納得するかっ」
 ガタンと椅子を立ち、怒りに燃えた目で尭己をにらむ。
 一呼吸し、すっと非情に目を眇めた。
「とりあえず、ちゃんと術をかけなおして。処分はそのあとよ」
「しょ、処分て、せんちゃん……」
 恐ろしげに亮が顔を引きつらせた。
 仙子は口元を不適に笑ませ、脅す視線を尭己に向ける。
 尭己はギクリと不自然に引きつった笑顔で仙子に眼差しを返す。
「そ、それがだね、芹沢……」
「なによ」
「そういうわけにはいかないというか……」
 そう言ってちらりと大志に目を向ける。
 大志はピンときて目を丸くした。
「まさかお前……」
 唖然として口を半開きにする。
 仙子が大志に不審な目を向けた。
 大志は驚き顔のまま尭己を凝視する。
「見つからなかったのか?」
「当たり〜。さっすが大志くん」
 二人だけ通じる会話を交わし、大志ががっくりうなだれた。
 へらへらとふざけて笑っている場合ではない。
 尭己は邪本を見つけられなかったのだ。
 祖母から受け継いだ秘伝書の山の中に、いくら探しても目的の物がなかった。
 自然の摂理に逆らう秘術がかかれた禁書である。
 仙子と亮の状態を解決すべく、昨日の夜から大志も協力してずっと探していた。尭己の部屋にあった本は、すべて調べ尽くしたはずである。
 そこにそれがなかったということは……。
「な、なによ、なんなの?」
 仙子が不安げな目で大志を見た。
「…………」
 大志は責めるような目で尭己を見た。
「……覚えてないのか?」
「なんとなくでいいならやれないこともない」
 そこまで聞き、仙子は状況を察した。
 尭己は元来いい加減でだらしない性格なのである。それは仙子も知っている。
 つまり、祖母に伝授されたものも、しっかり身につけていない。ことの原因になった仙子と亮の入れ替える方法もうろ覚えなのだ。
 呆然として立ち尽くす。今度こそ本当に顔の筋肉が引きつった。
 そのときだった。
 ――――コンコン
 優雅で品のあるノックがされた。
 部屋にいる一同が、ギクリと体を硬直させる。
 本来なら仙子は部屋に一人で閉じ込められているはずなのだ。
 紅が気を使って仙子の様子を見にきたのだった。



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