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屋上の扉前にはやはり立ち入り禁止の立て札があったが、鍵が開いていたので簡単に外に出ることができた。 病院としてそれは問題があるような気がするので、もしかしたら沙久耶が壊したのかもしれないと考える。 エレベーターは8階止まりで、その先は階段だった。 外に出てみると屋上は冷たい風が吹いていた。まだ3月の終わりなのである。 特に高所恐怖症ではないのだが、8階となるとやはり高い。 遠くを見る分には見晴らしが良くて気持ち良いが、柵があっても端のほうにはあんまり寄りたくない。 「お、いたいた」 沙久耶は、桂介が下から見かけた場所にまだ立っていた。 上空の強い風に長い黒髪がなびく。 桂介の見た限り、沙久耶の他には誰もいないようだったし、特に興味を引かれるようなものもなかった。 ベンチや物干し台もなにもなく、本来人の出入りもない。 沙久耶だけが、身長ほどある柵の隙間からぼんやり外を見ていた。 「こんなところでなにやってんだ?」 「ん?」 振り返って桂介がやってきたのを見て、沙久耶は少し驚いた顔をした。 他に人が来るなどとまったく思っていなかったのだ。 「お前こそ。診察が終わったんならとっとと帰れば?」 「帰ろうと思ったんだけど屋上に人がいるのが見えたから一言危ないぞって言っておこうかと思って」 しかし、沙久耶の態度が至って普通なので、わざわざ屋上まできてしまったのは心配のしすぎだったような気がした。 見晴らしの良い高いところが単に好きだという輩もいるし、沙久耶もその系統なのかもしれない。 なんとなく気勢をそがれた気分になり、少々脱力した。 「お前漢字読めねーの? 立ち入り禁止って書いてあっただろ?」 「お前が言うな」 「でもま、一言言いにきたんなら用は済んだよな」 「それって帰れって意味だよな」 「用もないのにこんなとこにいる必要ないだろ?」 「そっくりそのままお前に言いたいセリフだ」 「ん〜…。まいいか、俺も帰ろうっと」 「用があるんならお前だけ残っててもいいんだけど」 「別にあってないようなもんだからいいんだよ」 「ふーん?」 無いと断定しないのが少々引っかかったが、無理に聞き出す必要もない。 「さ、帰ろ、帰ろ」 沙久耶がすたすた歩いて行くのに続いて、桂介も病院内へ向かった。 「鍵直してけよ」 「壊れてねーよ」 「普段から開いてんのか? 物騒な病院だな」 そして、沙久耶が扉のノブに手をかけたときだった。 「ほぉ…」 不意に男の声がした。 桂介も沙久耶も、ビクリと体を震わせた。 その声は、後ろから聞こえた。 今まで二人がいた屋上に、人の気配はまったくなかったはずだ。 振り返ると、少し離れた場所に若い男が妙な威圧感をもってたたずんでいた。 強面ではないが、身長が2メートル近くありそうな大男だった。 服装が黒一色というのも、異様な雰囲気を際立たせている。 普通に歩くだけでごく自然に道をゆずられるタイプだろうと決めつける。 さっきまでは、確かに桂介と沙久耶の他に人はいなかったし、屋上への出入り口は目の前の扉だけである。 それ以外で突然後ろに立たれるとすれば、空中から現れたとしか考えられないが、そんなことは常識的にありえない。 もしかしたら壁を上って柵を越えて屋上へ入って…と、ありえない想像をしてみたが、どう考えてもうなずけない。 しかし、目の前のイリュージョンに呆然としていたのは桂介だけだった。 「…出たな」 「へ?」 沙久耶のセリフに、とぼけた声を漏らす。 「お前の知り合い?」 チラチラ両者を見比べると、どちらも黒づくめだ。 大男は無表情で沙久耶を見つめ、沙久耶は剣呑な目でにらんでいる。 どう見ても親しい間柄には見えないが、知らない同士でもないようだ。 印象で判断すると、ハブとマングースだ。 空気に緊張感が漂っている。 「帰ったほうがいいぞ、ケースケ」 「…俺だけ?」 「俺も用が済んだらすぐ帰るし」 「用って…?」 聞かないほうがいいような気もしたが、怖じ気付いたら負けだと思った。 入学式で沙久耶をこてんぱんにする身としては、ここで沙久耶を残して一人では逃げられない。 男の視線が桂介に移り、それから沙久耶に目を戻す。 そんな男を沙久耶は睨む。 「よくものこのこ俺の前に姿を表せたな」 沙久耶が憎々しげにそう言うと、男の口がかすかに笑んだ。 「生きているとは思わなかったが」 「悪かったな、しぶとくて」 「ひどい匂いだ」 男に目を眇めて言われ、沙久耶は不愉快そうに眉をひそめる。 「なんか匂うか、ケースケ?」 「いや、全然。にんにくの匂いもカレーの匂いもしないけど」 「だよな」 「むしろ病院の外だから消毒薬の匂いもしないしすがすがしい空気だと思うぞ」 病院の裏手には木々の生い茂る緑の山もある。 どういう意味で言っているのか分からなかったが、男は理解させる気もなかった。 独り言のようにつぶやく。 「もっと早くにくるべきだった」 「俺としてもそうして欲しかったな。長々待たせやがって」 沙久耶は攻撃態勢を作ったが、男のほうは普通に佇んだままだ。 腕まで組んで余裕の構えである。 「借りはきっちり返させてもらうけど、その前に質問がある」 「…………。我々になにかを求めるときに必要なものがある」 男はじっと沙久耶を見ていたが、不意ににっと口角を上げた。 「――代償だ」 割って入れず、ただ様子をうかがうだけだった桂介の視界が男の声と共に唐突に歪み、急速に暗転した。 「ぐわ…っ」 桂介を取り巻く重力が変化した。 「な…っ、 そいつは関係ないだろっ!」 遠くで、沙久耶の焦った声がした。 耳に粘土をつめられたようにくぐもっている。 体が無くなったような解放感のあと、絞り出されるような圧迫。 地に足のついた感じがまったくしない。 「――……!」 「ケースケ…!」 夢の中から急に現実に戻されたようなはっきりした沙久耶の声の後、体の感覚がはっきり感じられた。 急速に、落下している感覚に襲われる。 「わ、わ〜…っ!?」 慌てて目を開くと、近づいてくる地面が見えた。 「マジか!? 嘘だろっ!?」 しかし確実に落下している。 桂介がいたのは8階建ての病院の屋上である。 そんなところから落とされたら確実に死んでしまう。 いくら場所が病院で、救急車を呼んで待たされる時間はないとはいえ、奇跡でも起きない限り死ぬ。 桂介は目をつぶった。 家族の顔と亘の顔、自らの選択に対する疑問が脳裏に浮かぶ。 沙久耶が屋上にいようが気にしないで帰れば良かったのか? そもそも沙久耶に関わったこと自体が間違いだったのか? 海江田の忠告を真剣に取り合わなかったのが悪いのか? なんにせよ、人生をやり直すにはまだ早い。 でももう遅い。運命にはむかう力があったとしても、重力には逆らえない。 「――…!」 「…っと、間に合った」 ガシッとした感覚の次に、ふわっとした浮遊感。ごく耳元で沙久耶の声。 次は、バサッという羽ばたきの音と、上昇するエレベーターの感覚。 「お、おお、おお!?」 巻き戻ししたように、桂介はまた病院の屋上に着いた。 理解を超えた事態に、頭が真っ白になる。 ぺたんと座りこみ、唖然としたまま動けない。 3秒くらいそうした後、ようやく脳に血が戻ってきた。 「…………え!?」 状況を把握しようと、情報を欲する。 視界からの情報を求め、辺りを見回し、背後にいる沙久耶に目が止まる。 「大丈夫か、桂介?」 「お、お前こそ…」 答えながら、桂介の視線は沙久耶の目にはいかなかった。 沙久耶の背後にあるものを凝視する。 「後ろになんか…」 「お前の気のせいだ」 「なわけねえって」 「気にするな」 「無理だって」 「忘れろ」 「忘れられないって」 「じゃ、誰にも言うな」 「それなら…」 条件反射的に答えたが、すぐに我に返る。 「っていうか、それ、なんだよ?」 「…………」 黙りこんだ沙久耶の後ろには、大きな羽があった。 「それ、背中に背負ってんのか?」 これまで生きてきた常識では受け入れきれずそう言ってみたが、否定にも限界がある。 それはどう見ても”生えている”のだった。 沙久耶の背中から。羽が。黒い羽が生えている。 「せっかく助けたんだから、無駄にさせるなよ?」 「そんな殺気のこもった目で見るなよ」 「意味分かるよな?」 「わ、分かった、誰にも言わないから」 言えば殺されるというのを感じ、桂介は焦って約束した。 「話しの分かるやつで助かる。俺も手は汚したくない」 「背中は汚しても?」 「あのな…、好きでこんなもんしょってるわけじゃねーっつーの」 「それにしてもひどい匂いだ」 自分で言っておきながら、桂介は今気付いたように慌てた。 「お、お前、すごい血の匂いがするぞ!?」 そこで改めて視線を動かし、沙久耶の足下にできた血だまりを発見した。 コンクリートの地面に、赤い液体がたまっている。 はっとして沙久耶に目をやる。 「顔色も悪いぞ、お前」 「ただの貧血だよ」 「バカ、こういうのは大量出血って言うんだよ」 血の気が失せて顔面が蒼白だ。 そのせいで力が入らないのか、震える手で桂介の腕をつかんだ。 その手が血に濡れている。 「ごめん、医者呼んで…」 弱々しくつぶやき、がくんと体から力が抜けた。 「さ、サクヤ!?」 完全に気を失って倒れかかってきた。 「お、おいっ。重てーっつーのっ、こら、しっかりしろっ」 手が血ですべり、支えきれずにサクヤを地面に横たわせる。 「…もしかしてヤバイ?」 ヒトというものがどれだけ血液を失うと死に至るとかはまったく知らないが、この量の血を流している人間を桂介は今まで見たことがなかった。 「どうしよう。とりあえず止血か?」 救急処置の基本を思い出してはみたが、怪我の場所が分からない。 「どこから血を流してんだよ、くそ…っ」 手足に傷は見当たらず、重いつくのは背中だが、どこも血だらけになってしまっている。 大元の流血がどこからなのか、桂介では見つけられそうにない。 「こんな場合は…救急車? …じゃないよな、病院にいるのに」 取り出した携帯電話をカバンにしまいかけ、さっきもらった湿布の袋が見えた。 下部にはこの病院の電話番号が印刷されている。 それを引っ張り出し、桂介は携帯電話を再び開いた。 慌てているせいか指がすべる。 自分が怪我をしたわけではないのに、指が震えて更に焦った。 どうにか番号を押し、通話ボタンに指を当てる。 「…………」 そこでぴたりと動きが止まる。 沙久耶の背中には黒い羽が生えたままだ。 本人が気を失ったからといって都合よく消えてはくれなかった。 どう見ても幻覚には見えない。背中から生えているカラスのような真っ黒な羽は、人間サイズに大きい。 これを医者に見せて良いのか? 迷ったが、沙久耶の顔は蒼白だ。 「ええい、あとのことなんてしらねえ」 桂介はブチっと通話ボタンを力強く押した。 |