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第二章 ――書店 医療書のコーナーだ。 書店が開いてから早々にやってきて、もう小一時間くらい桂介はそこに張りついていた。 背表紙のタイトルを目で追いながらそれらしいものを探しているのだが、一般の書店ではやっぱり見つからないのかも知れない。 「……あの医者、いい加減なこと言いやがって」 眉根を寄せ、不満いっぱいにつぶやく。 適当な本を手に取り目次を追いながら、桂介は昨日のことを思い返していた。 桂介の電話に、最初に事務員っぽい人が出た。 かけたはいいが多少のためらいがあり沙久耶の状態を言えず。 それでとりあえず止血の方法を聞いたのだが、どこを怪我したのか訊ねられてしまいまた口ごもる。 どうも羽を怪我してるみたいだなどと言えば、いたずらだと思われるのが関の山。 仮にものすごく良い人であったとしても、動物病院の電話番号を教えてくれれば良い方だ。 無言になった桂介を電話口の相手はどうも不審だと思ったらしく、自分では対応できないと言って違う人間に替わった。 出たのは若い男で、聞き覚えのある声。 子供にぶつかられたとき、事情も聞かずに注意してきたあの医者のようだった。これでは更に桂介が不審者にされてしまう。 一瞬電話を切ってしまおうかと考えたが、その医者――早川の口から思いがけずに沙久耶の名が出たのだ。 早川『沙久耶ちゃんになにかあった?』 その口調には迷いが無く、事情を飲み込んでのセリフだと思えた。 桂介は迷わず早川医師を屋上に呼んだ。 早川がくるまで実際は5分とかからなかったのだろうが、待っているときは長く感じるものというのは本当だった。 「早くきてくれ〜…」 血色を失った沙久耶をなにもできずに見ているだけという状況に耐えがたいものを感じ、桂介はあれこれと思案した。 亘の道場で応急処置を教えてもらったことはあるはずなのだが、いざこういった状況に陥ってみるとなかなか早急で適切な対応は難しい。 下手なことをやってしまってたらまずいと考えるとなにもできない。 「…あ、そうだ、気道の確保」 と一瞬思ったが、息はしている。 「じゃ、止血…」 といっても傷口が背中だと心臓に近い止血点の位置が判別不能だ。 「え〜と…」 自分にできることを考えたが、できそうなのは励ますことくらいしか思いつかない。 しかも沙久耶の意識はなく、励ましたとしてもなんの効果もありそうにない。 それでも、ただぽかんとしているのは気分的に良くない。 「今医者がくるからな、しっかりするんだぞ?」 桂介が声をかけると、沙久耶はかすかにうなずいたような気がした。 「大丈夫だからな」 不安な気分丸出しな声で励ましをしていると、屋上へ続く階段をかけ上がってくる足音が聞こえてきた。 待ち人が来たと察し、やってきた人物に顔を向ける。 「やっぱり君だったか」 手に黒い布を持った早川は、桂介にそう言ってからすぐ沙久耶の横にヒザをつく。 小走りで慌ててきたために、少しだけ呼吸が荒い。 「あの…」 どう説明したらいいものか。 というより、考えてみると実は桂介自信が状況把握できていない。 突然現れた大男に屋上から落とされそうになったが気付いたらまた戻ってきていて、沙久耶は羽を生やして血を流していた。 そこまで思い出し、沙久耶に助けられた事にようやく気づく。 沙久耶が助けてくれなければ、桂介は確実に8階建ての屋上からぐしゃりと地面に叩きつけられていたはずなのだ。 ということは、沙久耶がこんなことになったのは桂介のせいもある。 肩を落とした桂介をどう判断したのか、早川は慰めるようにぽんと方を叩いた。 「大丈夫だよ」 見ると、医者らしく、人を安心させようとする微笑を浮かべている。 「エレベータのボタン、押しておいてくれるかな、すぐ行くから」 「あ、はいっ」 今は落ち込んでる場合ではない。 早川はざっと沙久耶の状態を見終え、持ってきた黒い布をバサッと広げてその上にかけている。 白衣が血に濡れるのも構わず、黒い布に包まれた沙久耶を抱きかかえる。 桂介は階段を駆け下り、エレベータのボタンを何度も押した。 人の少ない廊下を選び、早川の言う通りにエレベータの操作をしたりドアを開けたりしてたどりついたのは1階の奥の部屋。 研究室Qと掲げてあった。一般の人はまったくおらず、張り紙や案内板もない廊下の奥だった。 簡素な手術室といった感じで、部屋の真ん中に固いベッドのような診察台があり、用具が雑多に詰め込まれた銀色のワゴンのようなものがある。 置くには書棚や薬棚、他に、引き戸の棚があり、事典だか資料文献だかがきれいに並べて積み重ねられている机が見える。 人は誰もいなかった。 早川は沙久耶を診察台の上に横たえると、包んでいた黒い布をはがす。 沙久耶の顔は蒼白だが苦しそうではない。静かに眠っている感じだ。 「おい、大丈夫か?」 声をかけてみたが、答えるはずもない。 医者がいるという安堵感から、桂介は落ち着きを取り戻した。 早川を見ると、白衣の前を赤く染めたままテキパキと処置の準備をしている。 血を見慣れない桂介にはその赤い色はちょっと衝撃的なのだが、早川医師はまったく気にする様子もない。 「ちょっと廊下に出ててくれる?」 「え?」 「脱がせるから」 「は?」 「処置するから」 「う、そうか…」 「彼女は気にしないだろうけど、君が気になるだろ?」 「健全な一般男子高校生ですから」 その答えに、早川は呆れた視線を返した。 「はあ…、具合の悪い子を前にして君って奴は」 「う…」 なにも言えずに体を反転させた。 廊下には、病院の処置室前なら普通に置いてありそうな椅子もなにもなかった。 窓の外はすぐ目前が白い壁で、外の様子もよく見えない。少し日が傾きかけてきたばかりだが、ここの廊下はそれとは無関係にずっと日陰になるようだった。 同じ病院内とはいえ、他の場所と雰囲気的な隔たりがある。 桂介は壁によりかかり、深呼吸した。 医者だから桂介の前で平静を装っているのでなければ、沙久耶はそんなに深刻な状態ではないのだろう。 早川が看護士も呼ばずに一人でなんとかできるくらいだから大丈夫なのだろうと思ってはみたが、冷静に考えると、呼べないのかもしれない。 桂介が、羽の生えた沙久耶を人に見せるのを躊躇したように、早川もまたそうしたということもありうる。 「…………」 そこでふと妙な違和感を感じ、桂介は顔をしかめた。 慌しく、なにも考えずに早川の指示に従ってここまでやってきたが、おかしなところがいくつもある。 屋上に現れた早川の手に、なぜ人一人包み込めるような黒い布があったのか。 病院なら普通は白い布を使いそうなものだが、何故か早川は黒い布を持ってきた。 血染めの白い大きな包みを抱えて歩くのは目立つだろうから、結果的には良かったのしれないが、その用意の良さが不可解である。 沙久耶が人前に晒せない状態で、かつ血だらけであると予測していたのならおかしくはないかもしれないが、それはそれで不思議だ。 だいいち、電話での会話もいきなり、沙久耶のことかと聞いてきたのは不自然だ。 それに、桂介に何の説明を求めることもなくこの対応。 救急車を呼んだとしたってどうしましたかくらいは聞かれるはずが、それをなんの迷いもなく手馴れた様子で対処していた。 医者におろおろされるのは嫌ではあるが、なにか妙だ。 「いや…、そもそも背中から羽を生やした沙久耶を見て何の反応もしなかったっていうのが一番ヘンだな」 しかし、電話での会話からいっても、沙久耶と早川は前からの知り合いであると考えるのが正しいだろう。 桂介はいぶかしむように首をかしげる。 色々と疑問だらけである。 しばらくして、カチャリとドアが薄く開いた。 隙間からそっと早川が顔をだし、そこにいた桂介と目があった。 「あ、やっぱりまだいたんだ?」 「帰れないでしょ、この状況で」 あの場に居合わせたのが桂介だけなのだし、意識を失った沙久耶をそのままにして一人だけのほほんと家でゆっくり休めない。 「君は沙久耶ちゃんの友達?」 そう訊かれると、友達というほどではない。 「正直に言うと今日会ったばっかりです」 「ふーん。名前は?」 「高橋桂介。今日高校の合格発表を見に行って、そこで会ってまた病院でもたまたま会ったってだけです」 「てことは同じ高校に通うんだ?」 「そうです」 心の中で、入学式でとりあえずこてんぱんにするけどと付け加える。 ついでに大勢の人の前で沙久耶に喧嘩で負けたことも言わないでおくことにした。 「で、沙久耶は?」 「あ、もういいよ、とりあえず」 言いながら、早川がドアを大きく開いた。 それを入室の許可として、桂介は室内に入った。 沙久耶は固そうな診察台に寝かされ、点滴を打たれて眠っていた。 「大丈夫か?」 返事を期待してではなく、とりあえずお見舞いとして言っておいた。 さすがにすやすや穏やかそうではないが、つらそうでもない。 血色が悪いせいか、目覚めの時を待って眠り続ける棺のドラキュラのような印象だ。 「ちょっと多く血が抜けただけだからね、安静にしてればそのうち起きるよ」 「そうですか」 時間もかからなかったし、そんなにたいそうな処置はされなかったらしい。 仰向けに寝かされているので羽がどうなっているのか分からない。 桂介は、後ろを向いて片付けをしている早川の背中に目線をやる。 「もしかしていつもあることなんですか?」 「……なにが?」 片付けの手が止まることはなかったが、その間のとり方で一瞬言葉につまったのは分かった。 本人も自分でそれに気づき、軽くため息をついた。 「…分かってると思うけど、他言は無用だよ」 「そんなの言われなくても」 誰に言ったところで信じてはもらえないのは目に見えている。それでなくても言いふらす気はないが。 片づけを終えた早川は、沙久耶のかたわらに立つ桂介の横に来た。 桂介は沙久耶に目を向けたまま、隣りの早川に疑問を投げる。 「あれって、羽ですよね?」 「直球だね」 「この期に及んで回りくどく訊いてもおかしいでしょ」 「まあね」 顔を見なくても、苦笑しているのが分かる。 「でもこういう事態はいつもあることではないよ。慣れてるわけじゃない。事前の知識があるから騒がないだけで」 「でも要するに、羽のことは前から知っていると」 「…そうだね」 つぶやき、早川は少し悩むように腕を組む。 「それにしても同じ学校かぁ…」 桂介がこれから嫌でも沙久耶と顔を合わせるということを懸念しているらしい。 「勘ぐる必要もなければそのうち忘れると思いますけど」 事情を教えて欲しいというニュアンスを含ませていった言葉に、早川はやはり考え込む。 「へんに気にするといつまでたってもこのことが頭を離れないだろうし、そうなるとうっかり口を滑らせたり…」 やや脅しであると感じたのか、早川は微妙に嫌な顔をした。 「世の中には解明されないことが多いよね」 「そういうものって人の噂になりますよね」 「なるほどね」 うなずきに苦笑が交じった。信念の固そうな桂介の性格が見えてきたらしい。 「それじゃたとえば、地球がどうして回るのか君は知ってる?」 「知らなくても困りません」 「だよね、知らなくても問題ないことは知ろうとしなくていいもんだよね」 「でも知っていればなにかあったとき役に立ったりしますけど」 「そのへんは間に合ってるけど…。まあいいか」 間に合っているというのがどういう意味か分からなかったが、まあいいかという部分に、早川のガードが少し軽くなったらしいと期待する。 ちらりと表情をうかがうと、早川は餌をねだる野良猫に困らせられたような顔をしていた。 「でも、実際僕もよく分かってないしな。仮説でいいなら教えられるけど」 「それでいいです」 |